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霊的な教育の土台

T・オースティン-スパークス

初出:"A Witness and A Testimony" 雑誌 1942, Vol. 20-3. 原題:"The School of Christ - Chapter 1".

第1章

引用聖句、エゼキエル40章2~4節、43章10~11節、マタイ3章17節、11章25~30節、ヨハネ1章51節、ルカ9章23節、エペソ4章20~21節。

引用箇所の中で、この学びで大切な御言葉はこれです、マタイ11章29節、『あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。』

わたしから学びなさい。使徒パウロは微妙に違う言葉を選んで、主イエスが言わんとしていることを語っています、『あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。』(エペソ4:20)

小さな単語をひとつ取り去ることで、大きな違いが生まれ、本当の意味が見えてきます。主イエスは、地上にいたとき、客観的な言い方で語るしかありませんでした。それは、主観的な時間がまだ来ていなかったからです。主が、『わたしから学びなさい(Learn of me)』としか言えなかったのはこのためです。主観的な時間が来たとき、御霊が、使徒たちを導き、『から(of)』を取り去って、『キリストを学びなさい(learn Christ)』と言わせるようになります。


あなたたちの多くはすぐに気づくと思いますが、これは現在、ちまたにあふれる、通俗的なキリスト教が犯している過ちにすぎません。それはイエス様のある種の外面的な模倣であって、そこには何の価値もありません。これに対して、イエス様自身の内面を学ぶことには、大きな意味があります。

ですから、これからしばらくの間、キリストの学校に専念することにします。この学校に主は、『彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわすため』(マルコ3:14)に選んだ12人を招き入れました。彼らは、初めは弟子と呼ばれましたが、それは文字通り、徒弟としての訓練を受けるために召されたからです。使徒となる前に、すなわち、宣教のために遣わされる前に、私たちはまず、訓練の場に入って、弟子となり、そして、教えを受けなければなりません。これは、内面的なかたちで行われます。この学校へと、生まれ変わった者たちは連れてこられます。この学校の特質、これから何を学ぶのか、また、私たちの霊的な教育の指針を知っておくことはきわめて大切です。

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初めに、この訓練の目的を全て説明します

この学校に入るにあたって、私たちが本当にその御腕の中にあれば、偉大なる教師、そして、解き明かす者である御霊が、最初に私たちのためにすることは、これから学ばなければいけないものの全体像を包括的なかたちで示し、この教育の壮大な目的を表すことです。エゼキエル書から読んだ一連のみことばは、この問題に大きく関連していると思います。神の人々のあいだにまことの御心がもはや表わされず、また、神の御心に直接、ふれることが絶えてなくなった日、はるか遠い異国で、神の御霊がその手をこの預言者の上に置き、神々しい幻の中で、彼の霊をエルサレムへと連れ戻して、高い山の上に降ろし、そして、新しい神殿からいのちの川が地の果てへ向かって流れ出るさまを示されました。これに続けるかたちで神は、全てのことを、あらゆる細部に渡るまで詳しく説明され、次いで、この預言者に命じて、霊的ないのちの復活を引き起こそうという目的で、イスラエルの家、一軒一軒に対して、この壮大で神の御心を包括的かつ詳細に表すことによって、彼らはまず、自分を恥じるべきであることを示させました。

エゼキエルの神殿がいつか、文字通り、地上に建設されるのかという問題は、議論の対象となってきました。この点は、ここでは問題にしませんが、ある一点については、疑問の余地がありません。エゼキエルが見たものは、ひとつひとつが、主の御体なる教会にある何かに霊的に対応しており、教会において実現されています。霊的にはそれはすべてキリストの中にあります。そして、ご自分の民に、御心を全て確実に伝えるために神が取られる方法は、まず第一に、御自身の『目的』のすべてを示すことです。そして、これを神が行ったのは、ヨルダン川で天の裂け目から、こう言ったときです、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』神は、ご自身の民に対する御心の全てを、細部にわたって欠けるところなく表され、また、確約されました。使徒パウロは、私たちにも馴染み深い言葉で、この事実をはっきりと語っています。

『なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。』(ローマ8:29)

『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』そして、『御子のかたちと同じ姿に定められた。』ここで、神の目的が、主との結びつきにおいて、はっきりと表わされ、承認され、そして、宣言されたのです。ですから、繰り返しますが、聖霊が第一にするのは、霊的な教育が目指すものの全体像を私たちに理解させることです。具体的には、キリストを私たちの中に現した上で、私たちをキリストに一致させるというはたらきに取りかかるのです。キリストを学ぶためには、まず、キリストを見なくてはいけないのです。


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