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牢獄、幻、備え

T・オースティン-スパークス

初出:"A Witness and A Testimony" 雑誌 一九六三年九月・十月号、Vol. 41-5. 原題:"Prison - Vision - Provision".
翻訳者:オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー

「そして、ヨセフの主人は彼を捕らえて、王の囚人をつなぐ牢獄に入れた。こうして彼は牢獄の中にいた。」(創世記三九・二〇)
「そこでパロは人をつかわしてヨセフを呼んだ。人々は急いで彼を地下の牢獄から連れ出した。(中略)パロはヨセフに言った、『私は一つの夢を見た。(中略)聞くところによると、あなたは夢を聞いて、解き明かすことができるそうだ』。ヨセフはパロに答えて言った、『いいえ、私ではありません。神がパロに解き明かしを与えてくださるのです』。」
「そこでパロは家来たちに言った、『我々は神の霊を持つこのような人を、他に見いだしえようか?』」
「飢饉はエジプトの国に激しくなった。」 (創世記四一・十四~十六、三八、四八、四九、五六)
「フェリクスはユダヤ人の歓心を買うために、パウロをつないだままにしておいた。」(使徒二四・二七)
「私たちがローマに入った時、百人隊長は囚人たちを近衛隊長に引き渡した。」(使徒二八・十六、欄外)
「イエス・キリストの囚人」(エペソ四・一)
「私ヨハネは、神の言葉とイエスの証しとのゆえに、パトモスという島にいた。」
「そして私は大きな声がするのを聞いた。その声はこう言った、『あなたが見ていることを書き物にして、それを諸教会に送りなさい』。」(黙示録一・九~十一)
上に引用した節は、神の三人の僕の生涯と務めの要約です。彼らの経験が結んだ実は、神の民に対して完全な形で命となるためのものでした。しかし、神の主権的な選びの道は、この三人だけの特別なものではありません。聖書の時代とそれ以降、さらに多くの物語があるのです。聖書の時代の物語では、顕著な例としてエレミヤとダニエルを加えることができるでしょう。

この「回想録」にはそのような多くの記録が載っています。そこに記録されている人々が経験した苦しい道のりは、霊的に飢えている人のためのパンとなるためのものでしたし、今でもそうです。この牢獄は必ずしも文字どおりの鎖や投獄とは限りません。この牢獄は病床の場合もありますし、奉仕の地として神に定められた場所で経験する一人ぼっちの孤独の場合もあります。また、神の僕が経験する拒絶や追放の場合もあります。それは、力づくで追放する人たちの偏見、盲目さ、妬み、霊的狭量さのためです。その多くの場合について、それは「神の言葉とイエスの証しのため」であったと言えましたし、今もそうです。

このような「監禁」にはいくつかの特徴がありますが、それを書き記すことは有益でしょう。もちろん、全体的に言って、私たちは神の統治の確かさを確信する必要があります。ただしこれは、そのような監禁が当事者のわがままで自分勝手な不従順な道のせいではなく、ヨナが陥った苦境の類でもない場合に限ります。この監禁は人の弱さや過ちのせいだったかもしれませんが、それでも神は何ものにもまして偉大な方であり、ご自身に対する真実な心が真にある限り、すべてを御旨にかなうものに転じることができるのです。「ご自身の御旨の御計画にしたがってすべてのことを行われる方」。

困難で耐えられないように思われる状況のとき、その問題を引き起こしたおそれがある間違いや過ちを反省する余地が往々にして大いにあるものです。「もし」と惨めな気持ちで反省します。「もしパウロが皇帝に上訴してさえいなければ!」「もしヨセフがポティパルに主人の妻が実際に行ったことを話してさえいれば!」。この類の反省は尽きません。「仮にもう一度やりなおせたなら、別の行動で問題の大半を避けようとするだろう」と考えない人はほとんどいません。私たちは特別な罪のことを言っているのではなく、「過ち」について言っているのです。過去の罪の問題は、言うまでもなく――今ある光により――繰り返すべきではありません。今私たちが過ちだったと見なしている事柄の多くは、その当時持っていた最良の光にしたがって行ったものだったのです。これは主権的恵みのために広大な領域を開くものであり、主権的恵みはその課題に完全に対応できるのです。

神の敵、神と共なる私たちの歩みの敵は、訴えをもって私たちを激しく批判し、神に対する私たちの信頼を損なおうとします。このように、ある広大な領域が存在しており、そこでは御父の理解とあわれみに断固として委ねる必要があるのです。

ということで、逆境のもっと慰めに満ちたいくつかの特徴について見ることができます。

1.神は決して非常事態に見舞われることはありませんし、反対活動で被害を被ることもありません。この事実は上記の事例から明らかです。

完全に魂を打ち砕くような経験に対するヨセフの有名な所見は、「あなたたちは悪を図りましたが、神は善を図られたのです」でした。こうして彼は「神は善を図られた」という至極もっともな理由を与えます。パウロやヨハネはこの所見に心から同意するでしょう。

神はご自身の僕たちを選んで召し、僕たちの心を利己的でこの世的な野心から清めてくださいますが、これは神の予知によります。神はまた、僕たちが神への献身の道で遭遇する出来事をも予知しておられます。ヨブほどひどくとまどう経験をした人はいませんが、そのヨブでさえ、「神は私が選ぶ道を知っておられる」と言うことができました。

まさに人の最大最悪の過ちや、サタンの見かけ上の勝利――「堕落」――ですら、神はご自身の道を用意して備えておられなかったわけではありません。その必要が実際に生じる前から、神はその解決策を持っておられました――その解決策とは「世の基が据えられる前から屠られていた小羊」です。神の目的が神の容認を正当化しました。恵みと栄光が苦しみと悲しみを圧倒的に超越するでしょう。神に予見できないことはありません。「神は万物の主です」。

2.当の僕が「牢獄」という暗く冷たい孤独な試練を通過している間、彼にはその意味がまったくわかりません。せいぜいわかるのは、主は神であるということです。見たところ、彼は断ち切られ、閉じ込められているかのようです。忘れ去られ、人々の裏切り、不忠実さ、残忍さ、移り気のせいで苦しんでいるかのようです――兄弟たちからさえも苦しめられているかのようです。また、人や悪魔の邪悪な軍勢のひどい悪意に苦しめられているかのようです。ヨセフの場合にそうだったように、重苦しい気持ちが魂をむしばむおそれがあります。苦々しい精神、失望、抑圧、絶望に対する戦いは熾烈かもしれません。ヨセフは自分の正当性の証拠となる来るべき十四年間、自分の苦しみの結果について、何も知りませんでした。幻滅は冷酷な敵でした。なぜなら、嘲る悪霊どもは、現在の経験をうまく利用して、ヨセフが最初に見た栄光の夢をからかったからです。

パウロやヨハネは、自分たちの牢獄から発したものを二千年にわたって人々が読み、それから大きな益や利を得ることになるとは、決して想像していなかったでしょう。彼らは、後世ずっと続いて永遠にまで至る霊的歴史を形造ったのですが、それを何も知らなかったのです。

3.こうした拘禁や明白なる制限の主たる要素は、その結果の訪れはしばし先のことだった、という点です。パロの夢とヨセフの解き明かしは、まだ実現していないしばらく先の事と関係しており、完全に信仰によって備えなければならないものでした。神は将来起きることをご存じであり、神ご自身が将来の状況のために用意して備えてくださるのです。逆境の深い暗闇の中、神は何かを行っておられ、「多くの人々を救って生かす」何かを確保しておられるのかもしれません。私たちの今の時代、現在の供給源の貧しさや浅薄さのゆえに、「天の幻に従順」であるには大きな代価を払う必要があったこれらの時代の、さらに強く、さらに強力で、さらに心を満足させる務めへの回帰とその再生がなされています。

筆者の個人的な友人の中に、聖書を教える務めで世界的に名を知られている、ある神の僕がいます。この親愛なる人は、以前ある教会の奉仕者でした。ある時、その教会の責任者の人々がいくつかの方針や手続きを採用することを決定しましたが、彼はそれらの方針や手続きは諸々の霊的原則にまったく反すると確信しました。この奉仕者は聖書に基づいてこれに抵抗しました。彼は教会を去ることを余儀なくされ、「これは片隅で起きたことではなかった」ため、一般誌や宗教誌がこの事件を取り上げました。その多くは彼を非難するものでした。数年間、どの教会や人々も、彼と関わろうとはしませんでした。彼は追放、排除、隔離され、自分の家に閉じ込められ――彼の妻と共に――二シリングと六ペンスだけになってしまいました。彼は私に言いました、「しかし、この拘禁の数年間のおかげで、私は徹底的に私の聖書に打ち込むことができ、その後の長年に及ぶ聖書を教える世界的な務めのために基礎を据えることができたのです!」。主要な教会や大きな大会で(それらが聖書に忠実である限り)彼を歓迎しようとしないものはありませんでした。そして、彼の後年の務めの場だったその市の大学は、彼に神学博士の栄誉を授けたのです。

すべての人が――生きている間に――その正しさを立証されるわけではありませんが、「逆境の時、神は将来のために用意して、備えてくださる」というこの原則は有効です。

それゆえ、イスラエルは兄弟たちの裏切りにも関わらず、その後、数世紀保たれました。これはヨセフが牢獄へ行き、そこで自分の神を立証したからです。

それゆえ、私たちはパウロの手紙の中に彼の牢獄の無限の宝を持っています。それゆえ、私たちはパトモスにおけるヨハネの幻と書き物というかけがえのない富を持っています。この書き物に関して、彼らに出来たのは書くことだけでした。そしてこの書き物は――彼らは何も知りませんでしたが――後世の多くの世代にわたって聖徒たちの食物となったのです。

牢獄。人々の不親切や逆境の到来――のように見えるもの――によって魂が排除されて閉じ込められる時、ただ神だけがその魂の心の願いをすべてご存じです。

幻。しかし、そのような時は、「天が開かれ」て、霊的に大いに富む時となりえます。

備え。そして、その実は霊的飢饉の時、多くの人々に対して命となることができるのです。

「証し人と証し」誌、一九六三年九月・十月号、四一・五巻 初出


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