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一つの人類から別の人類へ

T・オースティン-スパークス

第一章 新約聖書:大いなる移行

「私たちの父、私たちの神よ。『光あれ』と言われたあなたが、このとき私たちの心の中を照らして、『イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識の光を与えて』下さるよう、私たちはあなたにいま求めます。この御顔を私たちは今ともに求めます。私たちはあなたの御顔を求めます。覆いは取り除かれていることをあなたに感謝します。天が開かれていることをあなたに感謝します。聖霊が来臨されたことをあなたに感謝します。私たちが祈り求めているのは私たちの必要についてです――私たちはそれを深く自覚しています――私たち自身は無能であり、無力であり、何もできませんし、あなたにふさわしいことを何も言えません。ああ、主よ、あなたに徹底的に拠り頼むことを私たちは告白します。しかし、私たちはあなたに申し上げます、私たちはあなたに信頼すると。今、この時を、あの開かれた天、あの御霊の油塗り、イエス・キリストの御顔にあるあの啓示の益にあずかる時として下さい。これを御名の中で求めます。アーメン。」

この週の最初の集会、この朝の集会では、私たちの黙想のために基礎を据えたいと思います。旧約聖書と新約聖書の幾つかの節に向かって下さい。創世記五章二節から始めると、「男と女に神は彼らを創造し、彼らを祝福し、彼らの名を人と呼ばれた」(アメリカ標準訳)と述べられています。さて、新約聖書のコリント人への第一の手紙一五章四五~四九節に移ると、「そこで、『最初の人は生きた魂となった』と書かれていますが、最後のアダムは命を与える御霊となりました。しかし、霊のものが最初ではなく、天然のものが最初であり、それから霊のものです。最初の人は地から出て地的であり、第二の人は天から出ています。地的な人に、地的な人々は同じであり、天的な人に、天的な人々もまた同じです。私たちは、地的な人々のかたちを帯びているのと同じように、天的な人のかたちをも帯びることになります(または、帯びようではありませんか)」(アメリカ標準訳)と述べられています。

次に、コロサイ人への手紙三章九節を見て下さい。「互いに偽りを言ってはいけません。あなたたちは古い人をその行いと共に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。その新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって、知識へと至るように新しくされつつあります。そこにはギリシャ人とユダヤ人、割礼と未割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人はありえません。キリストがすべてであり、すべての中におられるのです」(アメリカ標準訳)。

最後に、ヘブル人への手紙二章五節は「神は、私たちが語っている来るべき世界を、御使いたちに服従させることはなさいませんでした。しかし、ある人がある箇所で証しをして言っています。『人は何者なので、あなたはみこころにとめられるのですか?人の子は何者なので、あなたは顧みられるのですか?』」と述べています。

すでに述べたように、この朝の集会では、私たちの黙想のために基礎を据えることにします。やや一般的・包括的になりますが、後で内容に進んで実際的核心に至ることにします。しかしまず、私たちの前にあるものに関する包括的見解・ビジョンを持つ必要があります。

きっと、今回ここにいるあなたたちの中には数々の問題を抱えている人が二、三人いるにちがいありません。また、今日、クリスチャンたちは世界中の至る所で問題をたくさん抱えていることに私は気付いています。それは(大抵の場合とは違い)彼ら自身の霊的生活や彼ら自身に関する問題ではなく、他のクリスチャンたちに関する問題です。あるいは、教会全般に関する問題であり、おそらく地元の教会に関する問題です。また、この世に関する問題もあります。これらの問題は多様であり、私たちの霊の命を干上がらせ、私たちの霊的成長を大いに停滞・遅延させがちです。状況はこの通りです。多くのクリスチャンは今日そうしています。彼らは栄光を見失っています。彼らの目が内側や地の方を向いているからです。これが彼らの問題です。

イスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地に入った時のことを、あなたたちは覚えているでしょう。彼らに対する御言葉はこうでした、「あなたたちと契約の箱との間には、二千キュビトの距離をおかなければならない。それは、あなたたちは今までこの道を通ったことがないからだ」(ヨシ三・三~四の言い替え)。この「あなたたちと契約の箱との間には、二千キュビトの距離をおかなければならない。それは、あなたたちは今までこの道を通ったことがないからだ」という単純な指示は深遠な知恵の豊かな宝庫です。状況に近づきすぎるなら、あなたは展望を失い、あなたの道を失います。あまり近づきすぎてはいけません。釣り合いを保って、全体像を見なさい。

さて、あなたたちは私と共に次のことに同意してくれるのではないでしょうか。すなわち、私たちは状況に近づきすぎて、状況で頭がいっぱいになってしまったのです。そうではないでしょうか?私たちのキリスト教の教理でさえそうです――それは尊く、重要な、決定的で不可欠なものです――しかし、私たちは私たちの教理を孤立させて、それらをすべてとしてきたのです。十字架に関する教理をすべてとすることすらできます。今日多くのクリスチャンたちを取り囲んでいる輪のような多くの他の事柄について述べることもできます。彼らはその輪の向こうを見ることができません。それを超えるものを何も見ることができません。彼らと話をしても、彼らはそれ以外の何ものにも興味がありません。彼らは毎回それに戻って来て、あなたをそれに縛り付けます。全体をバランスよく俯瞰して見渡さなくなったことが、私たちの問題の多くの原因であり、私たちの停滞した霊的生活の多くの原因です。

さて、なぜ私はこれを述べているのでしょう?二つの理由のためです。あなたは自分の個人的問題よりも大きな視野を持たなければなりません。そして、それらを関連付けて見なければなりません。私は相対性科学についてあまりよく知りませんが、関連性・相対性の原理を大いに強調します。私たちはすべてのものを、それ以外のすべてのものと関連付けて見なければなりません。たんにそれ自身が目的であるものとして見てはなりません。今朝、私の心にあるものをあなたたちと分かち合いたいと思います。いま私がひしひしと感じているのは、霊的生活のこの包括的背景についてです。その偉大性、巨大性、無限性を捉えることです。

さて、無限性のゆえに、もちろん、あなたは畏怖の念に打たれ、立ち尽くして息を飲むこともできます。しかし、無限性は解放するものにもなりえます。私たちがキリストにあってその中に召されたものの偉大さをあなたは目にします!キリストの偉大さです!ああ、私たちが今週、私たちクリスチャンの召しの無限性を新たに理解・把握できるなら、私たちは解放された民になれるでしょう。そこでこの背景から始めることにしましょう。

人類が神の目標である

今朝、私たちは聖書の多くの節を読みました。私は同様のもっと多くの節を加えたいと思いましたが、出発点としてはこれで十分です。これらの節がいったい何について述べているのかわかるでしょうか?最初の創世記から聖書全体を通して、それは一つのもの、すなわち人についてです。否、二人の人についてです。そして私たちが専念しようとしているのはこの二重の人性、もしくは二つの人類についてです。なぜなら、彼らが全聖書の主題だからです。聖書は神と人の物語であり、すべてはそれに集約されます。これと関係するものしか聖書の中にはありません。

もちろん、聖書は神と共に始まります。「初めに神が……」。第一に、私たちは神の事実を持ちます。ここからあなたは始めます。そして間もなく人に出会います。人の歴史は神と共に始まります。事実としての神と共に始まります――すべてを開始・指揮される神と共に始まります。働かれる神と共に始まります――神の御心が行動となって現われ、御心にしたがって神は行動されます。これが聖書の原則であることを思い出して下さい。神の御心が知りたければ、神の行いによってわかります。行おうと神が言われたことによって必ず分かるとは限りません。大抵、神の御心が啓示されるのは、神があなたの耳に語られることによってよりも、神があなたを取り扱われる方法によっての方が多いのです。

神は行動によって語っておられます。御業によってとても大きな声で語っておられます。神の御心は神の行動によって啓示されつつあります。神は働いておられます。人のためにすべてを整えるために働いておられます。神がこの準備をして、人を生じさせた時、神は「もはやなすべきことはありません。これで休めます」と仰せられました。そして、ご自身が用意した場所・舞台に人を導入した時、神は安息されました。

新約聖書が私たちに告げているように、この人アダムは来るべき方の絵図です。その御方によって、神は最終的に完全な安息を見い出されます。人は構成され、調整され、環境を与えられ、試験されました。神の権益はすべて人を中心としていました。事物が中心ではありませんでした。神の目標は事物ではありません。人が神の目標です。人類が神の目標です。

この思想と共に、私たちは神の関心のまさに中心である人類に戻ります。しかし、かの人アダムは神を失望させ、その期待を裏切り、神によって退けられました。そしてその時、神は再び行動されました。別の方、別の人を暗示することにより再び行動されました。この方は代表者たる人であり、神は世の基を据える前からこの人を予め定めておられました。この人は予め定められていましたが、そのとき予言・予示されました。そしてこの人を目指す神の反応のあの路線が、このもう一方の人を背景として、旧約聖書中を赤い紐のように貫いています。絵図、型、預言、選民の系譜の霊的歴史の中で、すべてがあのもう一方の人、あのもう一方の人性、この異なる人性を目指して進んで行き、遂に新約聖書に至ります。

新約聖書は人類の転機です。あなたはキリスト教をこのように考えたことがあるでしょうか?あるいは、あなたはキリスト教の一部分、その断片しか考えてこなかったのではないでしょうか。例えば、人の罪の贖い、人の個人的救い、人が永遠の希望と栄光を得ることです。これらはみな救いの一部であり、私たちはそれらを大いに重じてきました。もちろん、部分をいくら重んじても、部分は全体に及びません。そして、親愛なる友よ、私たちは今、キリスト教に関する私たちの観念・理念を再調整して、主イエスの来臨と共に人類史は転機を迎えたことを見なければなりません。それは一つの人類、ある種の人を最終的に退けて、イエス・キリストのパースンを持つ全く異なる種類の人類を導入する転機です。これを把握する時、あなたの全聖書は生き生きとしたものになります。生き生きとしたものになります。

何の中に私たちは入ったのでしょう?再生とは何でしょう?それは回心、「再び生まれる」こととも呼ばれますし、再生とも呼ばれます。私たちがその中に入ったこのものは何でしょう?――それはもう一つの人類の中へと生まれることです。それは被造物の異なる種族の一員であり、全く異なっています。別種の人類です。私たちの新約聖書と共に、もう一つの人類が導入されます。それは神が得ることになる、完全かつ最終的な種類の人類です。そして、途方もないことに、人の完成に関わるものは、この代表者たる方の中にすべて見い出されるのです。これが私たちの新約聖書と共に導入されます。

イエスは人類に対して独特な関係にあります。光線がこの偉大な事実に集中する様が見えないでしょうか?この人類の一部であるあなたや私に対して神がなさっていることは何でしょう?彼は何をなさっているのでしょう?彼は何を求めておられるのでしょう?神の御手の下で私たちが経験していることにはどんな理由があるのでしょう?

神の御手の下に入る時、私たちはこれを通ることになります。今週、私たちは何を期待しているのでしょう?ここから去って行く時、あなたは友人たちに会うでしょう。そして、彼らは「幸いな時をすごしましたか?」と言うでしょう。私がかつて参加した大会について、以前私はあなたたちに話したと思います。その最後に、その集会が自分にとって何を意味したのかについての証しが奉仕者たちから求められました。一人一人立ち上がって、「ああ、私は素晴らしい時を過ごしました。栄光の時を過ごしました。これは私の人生で最良の時でした……」云々と言いました。それから一人の人が立ち上がりました。彼の目は赤く、その顔はこわばっていました。彼は言いました、「私にはわけがわかりません。私は恐ろしい時を過ごしました。今週は私にとって悲惨なものでした。大事にしていたものがすっかりなくなってしまいました。今まで知っていたよりも新しいキリスト、大きなキリストが私には必要です」。あなたは今週何を期待しているのでしょう?まあ、あなたが素晴らしい時を過ごされることを私は希望します。しかしあなたの「素晴らしい時」は、親愛なる友よ、永遠の光の中ではとても悲惨な時かもしれません!その真の結果を見るようになる時、それは悲惨なことがわかるかもしれません。

神は何をしておられるのでしょう?――神は一つの種類の人性を滅ぼしておられます。日が経つにつれて、私たちはこれを理解するようになります。神はそうしておられます。あなたの経験がどうか、私にはわかりません。しかし、それが自分の経験であることを私は知っています。これが最も用いられ祝福された神の僕たちの多くの経験であることを私は知っています――つまり、彼らは悲惨な時を通っているのです。霊的に彼らはこの地点に到達しました。主が実際に彼らの傍らに立ち、担い、面倒を見て下さらなければ、彼らの長い霊的経験さえも終わってしまう地点です。いかなる過去があろうと、主が新たな方法で臨んで下さらなければ持ちこたえられません。多くの人にとってこれは真実ではないでしょうか?そうです、これが彼が行っておられることです。彼は二つの人類というまさにこの立場に基づいて働いておられます―― 一方は生来の私たちであるところのものであり、他方はキリストの中で私たちがそうであるところのものです。

ですから、今回私たちが専念するのは、まず第一にこの人なる御方を見ることです。この人なる御方を見ることです。私は祈ります、切に祈ります。この週が終わった時、あなたたちの多くが知っている詩の以下の言葉で私たちの心を真に表現することができますように。以下はこの素晴らしい詩から抜粋した数節です。

「キリスト」

私はキリストのものです、この御名で私を満ち足らせて下さい。
永遠に、彼は私を大いに満ち足らせて下さいます。
そうです、一生の間、死、悲しみ、
罪を通る時も、
彼は私を満ち足らせて下さいます。これまで満ち足らせて下さったがゆえに。
キリストは最後です、キリストは初めだったがゆえに。
キリストは初めです、最後はキリストであるがゆえに。

これらの言葉は、この時の結果として私たち全員が願っているもの――キリスト――を言い表しています。

キリストを新たに捕えること。

キリストに関する新たな、素晴らしい認識。

神の宇宙におけるキリストの意義を新たに見ること。

さて、この序論の残りの少しの時間、私はこの一点を指摘したいと思います。私たちの聖書のまさに核心・中心は途方もない移行であることを、あなたは認識していたでしょうか?(おそらく、このような言葉では述べてこなかったかもしれませんが)あなたはこれを認識していたでしょうか?聖書の核心で旧約聖書は終わり、新約聖書が始まります。なぜなら、ここに人類史もしくは人類の両半分があるからです。まさにそこで、その時、私たちはこの大いなる途方もない移行に出会います。新約聖書を完全に占めているのは、一つの人類から別の人類への移行・移動の意義と性質、その事実です。

私がこれらのことを述べるだけで、あなたは自分の新約聖書の中の節をたくさん思い出すでしょう。まず第一に、それは一人の人から別の人への移行です。アダムからキリストへの移行です。これは一コリント一五章の「最初の人」という句から分かります。神は「彼」を人と呼ばれたのでしょうか?いいえ、神は「彼ら」を人と呼ばれたのです(創五・二)。これは種族のことです。これは人類のことです。創世記五章の欄外から分かるように「アダム」と「人」は同じものです。「神は彼らを『人』と呼ばれた」。そして新約聖書は一つの人類から別の人類へのこの移行、一人の人類の頭また包括的人物から別の方へのこの移行と大いに関係しています。それは新しい人類であり、この移行を超えて進みます。それは種族的なものであり、アダムからキリストへ、最初の人から最後の人への移行です。

第二に、一つの国民から別の国民への移行があります。これについてはイスラエルに関して多くの議論の余地があることを私は承知しています。それにもかかわらず、新約聖書とキリストご自身が次のことを大いに強調しています。「神の王国はあなたたち(すなわちイスラエル)から取り去られて、多くの実を結ぶ国民に与えられます」。天的な実であって、地的な実ではありません。一つの国民から別の国民への移行です。

そしてペテロ、ああ、ペテロよ!私はペテロに驚きます。あなたもそうではないでしょうか?!この昔のユダヤ教的伝統主義者は、カイザリヤの異邦人に関して、コルネリオの家に行くことに関して主と争い、「それはだめです、主よ」という矛盾した言葉を主に向かって発しさえしました。「主よ」という言葉と「それはだめです」という言葉を同時に言うことはできません。かたやパウロがキリストに出会った時に言ったことをあなたは覚えているでしょう。「主よ、あなたは私に何をさせようとしておられるのですか?」。しかし、ペテロは自分の伝統からあまり抜け出しませんでした。アンテオケですら――本心を偽ったのです。エルサレムからヤコブと長老たちが下って来た時、ペテロは異邦人と一緒に食事をすることから身を引きました。彼には依然として喪服が少し残っています。しかし、まったくもって驚くべきことに、彼の手紙に来ると彼は抜け出しています。「あなたたちは選ばれた種族です」。誰がでしょう?ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、ビテニヤに散らされている聖徒たちです。選ばれた種族です。彼は一つの国民から抜け出して、今や別の国民の中に入っています。この人の中でこの移行が完了しました。しかし、それは戦いでした。天然の人とのこの旧来のつながりに関して常に戦いがあります。私たちはこれについてもっと多くのことを見ることになります。

次に、これは一つの経綸から他の経綸への移行です。あなたたちのヘブル人への手紙はこの移行に対する一つの堅固な根拠です。一つの句が関連する言葉と共に新約聖書の中で絶えず繰り返されることに、私は強い感銘を受けます。その句とは「~ではなく(Not)、しかし(But)」です。ヨハネはその口火を切らなかったでしょうか?キリストはサマリヤの女に言われました、「この山ではなく、エルサレムでもなく、しかし霊の中で」(ヨハネ四・二一、二四の言い替え)。「ではなく、でもなく、しかし」――これが何度も繰り返されるのがわかります。

そして、ここで一つの経綸からもう一つの経綸へのこの大いなる移行に出会います。旧経綸は御使いたちの偉大な務めを取り入れていました。これは午前の時間を要する主題です。旧経綸における御使いたちの務めです。律法は御使いたちを通して与えられました。御使いたちはギデオンやダニエルを何度も訪れました。大天使たち、御使いたちの素晴らしい務め――しかし、ヘブル人への手紙は「御使いたちにではなく(中略)しかし」という句を解き放ちます――「ではなく、しかし」――何という変化でしょう!そしてそれに続いて、この新経綸は御使いたちの務めよりも無限に優っていることを述べています。

そしてヘブル人への手紙の終わりの方に進んで行くと、「あなたたちが来ているのは、火で燃えている手で触ることのできる山ではなく(中略)しかしあなたたちが来ているのは……」というこの移行に関する句の一つに出くわします――かの旧経綸から新経綸導入へのこの動きは何と巨大なものか。あなたたちの新約聖書の中には一つの内容しかありません。それは福音書の中でキリストによって導入され、使徒たちによって完遂されました。そしてヘブル人へのこの手紙の場合、この手紙全体の確固たる主題は一つの経綸からもう一つの経綸への移行です。ああ、これを再び読んで、その内容を讃えて下さい。ヘブル人へのあの手紙を読み返して下さい。その内容を讃えて下さい。「ああ、何というものの中に私たちは入れられたことでしょう」。幕屋は?「確かに」と著者は言います。「この地上にしばらくのあいだ幕屋がありました(中略)それはその時が来るまでのことでした」。「それはすべて過ぎ去りました」と彼は言います。「そして今や、手で造られたのではない、神が造られた真の幕屋に、すなわち天の幕屋に私たちは来ています」。この移行がどれほど素晴らしいか見て下さい!―― 一つの経綸からもう一つの経綸への過ぎ越しなのです。

私は中断して問わなければなりません。ここでキリスト教界は正道を踏み外したのではないでしょうか?――

それは依然として旧経綸にしがみついているのではないでしょうか?

それは依然として喪服をまとっているのではないでしょうか?

それは依然として形式や方法を伴うモーセの経綸のままではないでしょうか?

それは解放されて天上の中に入っていないのではないでしょうか?

これが主がここで私たちになされたいことです。

一つの国民から別の国民へ:アブラハムからキリストへ、モーセからキリストへ。一つの主権から別の主権へ:新約聖書がダビデの子孫でありダビデよりも偉大である御子でどれほど満ちているのか、私たちは知っています――御子で満ちています。しかし、それは一つの地的主権からイエス・キリストにある別の天的主権への移行を示しています。

この移行のこれらの面に印をつけながら読み進むこともできたでしょう。もしヨハネによる福音書に対する鍵をご所望なら、ヨハネはこの福音書全体をただ一つの思想に基づいて書いたことを思い出して下さい。この福音書全体に対する鍵は、一人の人からキリストへのこの移行です。彼が引き継がれました。これが「私は……である(I am)」が頻出する理由です。これらの「私は……である(I am)」は古いものへの批判であることに気づきます。私はぶどうの木ではありませんが、「まことのぶどうの木」です。イスラエルはぶどうの木でしたが、彼がまことのぶどうの木として引き継がれました。イスラエルは偽りのぶどうの木でした――実を結びませんでした。

さて、私はヨハネによる福音書に取りかかるつもりはありませんが、あなたにこの鍵を与えます。この別の人性がキリストのパースンの中でマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書で導入されます。(これがそれらすべての福音書の鍵です)そこから移って、そして悲惨な十字架を通り抜けると、使徒行伝の中に入ります。あなたは何の中にいるのでしょう?ああ、使徒行伝のこの素晴らしい解放――移行、移行――の中にいるのです。悲惨な十字架のゆえにこの旧体制はことごとく何と悲惨なものになったことでしょう。そしてこの向こう側――この新しい人性――に至ったのです。主がどのようにこの古い人性に働きかけてそれを終わらせ、漸進的に今やそれをあるべき所にもたらされたのかに注目して下さい。

キリストを知る全き知識の頂点

ご存じのように、友よ、神は常に何かを目指して遡って働かれます。創造において、彼は遡って働いておられました。それを読み返して下さい。どうして新約聖書には、再生(regeneration)や和解(reconciliation)といった「再(re)」という小さな接頭語で始まる言葉がこれほど多いのでしょう。みなこの小さな接頭語「再(re)」がついています。なぜなら、彼は遡って働いておられるからです。

事物は過ぎ去り、過ちに走り、神の道から外れました。そして、神は事物が過ちに走った点に戻られつつあります。神は通常、私たちにそうされます。では神は何から開始されたのでしょう?――世の基が据えられる前からおられた御子です。永遠の過去の熟慮により御子が発端、神の出発点とされました。人はみな過去のゆえに道に迷いました。「私たちはみな羊のように道に迷った」。

神はご自身の出発点である御子に立ち返られます。キリスト教界は道に迷ってきました。そして、キリスト教界を救う唯一の道は神の出発点に立ち返ることです。御子に関する真の正しい理解に立ち返ることです。

私は話を進めることだけを望んでいるわけではありません。これは私たちに適用されることになります。私は次のことを知っており、それが真実であることを知っています。すなわち、主が私たちの多くに対してなさっているのは私たちを剥ぎ取ることである、ということです。主は私たちが身に着けたものや私たちがその中に入り込んだものを私たちから剥ぎ取っておられます。主はそれらを剥ぎ取って、主イエスかさもなくば無か、という地点に私たちを導いておられます!もし主イエスで駄目なら、生きる目的は何もありません。私たちの中には「主よ、もしあなたが介入してこの場所を満たして下さらないなら、私たちを取り去って下さい。もはや生きる目的は何もありません」と主に向かって述べる地点に達した人々もいます。

私は信じていますが、主は今日、ご自身の民の多くに対してそうなさっています。彼らの務めを取り去り、彼らが頼りにしてきた交わりを取り去り、物事、キリスト教的な物事――彼らの働き、彼らの宣べ伝え――さえも取り去っておられます。あなたが宣べ伝え始める時、宣べ伝えに関する幻想が生じます。年を取るにつれて、あなたはこの幻想を克服するようになります……。「主よ、あなたに宣べ伝えるつもりがないなら、私に宣べ伝えさせないで下さい」とあなたは言います。主はそのようなことをなさっておられます。ひたすら私たちを剥ぎ取り、私たちから事物を剥ぎ取り、キリスト教的なものさえも剥ぎ取っておられます。そして、主がご自身の地位に就くことになります。

さて、真の啓示の頂点はこれではないでしょうか?!それを使徒パウロの言葉で述べると「私たち全員が……に至るまで」となります。何に至るまででしょう?ああ、翻訳者たちが正確な訳を与えていないのは何と残念なことか。彼らは「私たち全員が……神の御子を知る知識に至るまで」と述べています。いいえ!「神の御子を知る完全な知識に至るまで……身の丈の度量に至るまで……」です。誰の身の丈の度量でしょう?ひとりの人です。キリストを知る知識、キリストを知る完全な知識の頂点が私たちの到達点です。では、それは何でしょう?――人なるイエス・キリストの(こう述べるのが許されるなら)複製であるような種類の人です。ですから、主だけになる地点、キリストだけになる地点に私たちはますます近づきつつあります。

私はキリストのものです、この御名に満ち足らせて下さい。
ああ、彼についてのさらに大きくて十分な理解を
得られさえすれば!

さて、私はここでやめることにします。もし主が望まれるなら、明日の朝、この点から続けてさらにこれに迫ることにします。この偉大な舞台・背景と共に――もし私たちがキリストの中にあるなら私たちはその中にあります――まさにこの句は神の御旨に関するこの観念を開示しているのではないでしょうか?!その神の御旨とは、キリストにあって別の人類を持つということです。

これが主があなたに対して、私に対して行っておられることであり、主は何かを変えつつあります。ああ、それは私たちにとってあまりにも遅々としたものであることを私は知っています。自分はその道をあまり進んでいるようには思われませんが、主は滅ぼすことと付け加えることとをしておられます。

しかし、私たちに何が分かるでしょう?しかし、私たちに何が分かるでしょう?ああ、私はこれまでの人生で感じてきた以上に、自分自身のことを惨めに感じています。もしキリストのためでなければ、私は今日ここにいなかったでしょう。いいえ、出て行っていたでしょう。私はここにいなかったでしょう。それはストレス、重圧、悩み、惨めさのためであり、塵の中に下って「主よ、あなたは間違いを犯しました。あなたは間違いを犯しました。私はあなたの大きな間違いです。あなたは私を決してこの地位につけるべきではなかったのです」と述べるしかない時を過ごしてきたためです。私たちの経験は常にこうであるように思われます。しかし、ここに私たちはいます。私たちは生き残りました。生き残っただけではありません。ここにいるのです。そして、自分たちはイエス・キリストにある神の力によってここにいる、と私たちは信じています。これを私たちは確かに知っています。ですから、「これはキリストのおかげです、キリストのおかげです、私たちの人生の中におられる力強いキリストのおかげです」と私たちは言うことができます。

さて、今朝はこれで十分です。彼が何をしておられるのか見て下さい。彼が御心に抱いたもの――ご自身の冠であり目標である人類――のために彼には素晴らしい御旨があることを、どうか彼が私たちに示して下さいますように。祈りましょう……

「主よ、私たちはあなたに願います。あなたに懇願します。どうか私たちの理解力の目を開いて下さい。これをたんなる話や教えにはしないで下さい――決してそれ自身を目的とはさせないで下さい。しかし主よ、あなたの御前で私たちをかがませてください。今回、私たちがあなたと共にどこにいるのかが真にわかるのは、ただ集会に出席することによってではないことを私たちは知っています。それは集会の背後や外で、私たちの部屋の中で、私たちの心の中でなされる祈りによります。私たちを導いて下さい、と私たちは祈ります。あなたは何に向かって働いておられるのか、そして、あなたはどうしてこのように私たちを取り扱っておられるのか、というこの問題を熟慮します。ですから、私たちをあなたの恵みによって助けて下さい。主イエスの御名の中で祈ります、アーメン。」

ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。