T・オースティン-スパークス
第六章 十字架に付けられ、よみがえらされ、高く上げられたイエス・キリストの途方もない意義
主よ、私たちがあなたに「私の目を開いて下さい。それは、あなたの律法の中から素晴らしいものを見れるようになるためです」と言う時、あなたが私たちに示せる最も「素晴らしい」ものはあなたの御子であることを、あなたはご存じです。ですから、物事ではなく御子です。今朝、私たちが御子を見ることができるよう、私たちの目を開いて下さい。人々ではなくあなたに対して、あなたに対して「私たちはイエスを見たいのです」と私たちは言います。ああ、あなたの憐れみにより、私たちがここを去る時、「私たちはイエスを見たのです」と真に言えるようにして下さい。あなたの御名のゆえに、そうなりますように、アーメン。
今、「大いなる移行」に専念してきた時間の最後に至りました。最初に述べましたが、全聖書は神と人類で占められています。旧約聖書は、全体を通して古い人類についてであり、この人類がいかに全く信頼できないものかを示しました。また、旧約聖書の終わりでは、結局のところそれがいかに失敗であるかが判明したのかを示しています。旧約聖書がマラキ書で終わるのは歴史的順番ではなく霊的順番にしたがっていることにあなたは気付いていると私は期待します。マラキ書では何と惨めな光景でしょう。この書は失敗で終わります。新約聖書は、主イエス・キリストによってもたらされた、新しい人類の導入と発展で完全に占められています。そしてその時点から、新約聖書はすべてこの新しい人類――キリストはその代表者です――の誕生、成長、最終的・究極的栄化で占められます。
これが、今週午前の一般的背景です。そして二日前、私たちはすべてを含む主イエスのビジョンに至り(私たちがここに一生とどまったとしても尽きることはないでしょう)、イエス・キリストの中に何があるのか、彼は何をもたらされたのか、使徒パウロが「御子を私の中に啓示することを神は喜ばれました」と述べた時、彼は主イエスの中に何を見たのかを、私たちは見始めました。それは何と途方もない啓示だったことでしょう。それは使徒の生涯の間ずっと成長し続けました。そして、すでに述べたように、あのビジョン、あの「天のビジョン」、あのように主イエスを内的に見ることにより、四つのことが使徒に臨みました。
第一に、栄化されたイエスの中に、パウロは、神の永遠の御旨にしたがって、人類すなわちキリストにしたがった人類の地位・性質・運命を見ました。次にパウロは、命の務めの原動力、主イエスの昇天とその再来の間のこの長い経綸全体にわたる務めの原動力を見ました。この務めの何たるか、その使命を彼は見ました。彼は主イエスを見た時にこれを見ました。私たちはそれに多くの時間を費やしましたが、十分ではありません。次にパウロは、現在及び彼が言うところの「代々の時代に至る」教会の性質と目的を見ました。この三つの偉大なものを彼は見ました。その後、パウロは四番目を見ました。これに、私たちは今朝専念することにします。
パウロは十字架に付けられ、よみがえらされ、高く上げられたイエス・キリストを見た
タルソのサウロは栄化されたナザレのイエス――「栄光の中にある人」を見ました。そして、この人を内側で見れば見るほど、あのビジョン、あの啓示を見れば見るほど、先述したこの三つのものを彼は見るようになりました。その後パウロは、十字架に付けられ、復活させられ、高く上げられたイエス・キリストの途方もない意義を見ました。もちろん、これらのことが彼のすべての書き物を満たしています。この四つの点を念頭に置いて、あなたはそれらの書き物に取り組まなければなりません。繰り返すと、十字架に付けられ、よみがえらされ、高く上げられたイエス・キリストの途方もない意義です。
この人、タルソのサウロが主イエスを見たとき彼に起きたことを知覚・認識・想像するのは全く不可能です。なぜなら、彼はナザレのイエスのことを詐欺師、偽教師、偽指導者、人々を導いて迷わせる者と思っていたからです。また、この偉大な魂が抱き得た敵意・憎悪・苦々しさのあらゆる感情が、この人――ナザレのイエス――に対して溢れ流れたからです。彼が、彼の途方もない能力、彼の天然の能力、彼の訓練、彼の知識を総動員して、彼の生涯の仕事としたこと、彼が彼の生涯の仕事としたことは、あの人、イエス・キリスト、ナザレのイエスと関係しているレムナントをすべて撲滅することでした。イエス・キリストの十字架は彼が受けるに値した磔刑だったと彼は見なしました。ナザレのイエスの死は、私たちが知っているような死―― 一巻の終わり――であると彼は見なしました。それは恥であり――恥、恥辱、不名誉に彼は値しました。それ以上でした。彼のユダヤ的観点から、彼はあの十字架上のあの人を、神に呪われた者、全能の神に呪われた者と見なしたのです!これがナザレのイエスに関する彼の考えでした。
パウロがダマスコに向かう途上イエスを見て、光によって打たれた時、それが誰で何を意味するのか、その時は分かっていませんでしたが、それに圧倒されて、「主よ、あなたはどなたですか?」と彼は言いました――「私はイエスです、私はイエスです」という返答が臨んだ時にこの人サウロの内に起きた途方もない大変革を、伺い知るのは不可能です。「あなたがあのような思いを抱いていた者です。あなたがあのようなあらゆる思いや感覚を抱いていた者です。私はその者です。私はイエスです」。その時、この人が感じたにちがいないことを、伺い知るのは不可能です。しかし、その時に、その時以降、彼は栄光を受けて権力の座にあるこの人イエスを見始めました。この人イエスはタルソのサウロのような人さえも一撃で地に打ち倒して、ひれ伏させることができます。そして彼を、人々に起こしてもらって、行こうとしている場所に盲目のまま手を引いてもらわなければならない者にすることができます。それに圧倒されて、彼はこの方によって、あの磔殺はたんなる磔殺ではなく、あの死は自分が思っていたような死ではなかったことを見始めました。それどころか、十字架に付けられたイエス・キリストは、彼が生涯追い求めてきたすべてだったのです(これを彼は啓示と生涯にわたる経験によって学びました)。彼が見たことは教えからわかります。
彼は私の代わりに死なれました:彼は皆のために死なれました
何という「皆」の意味をパウロは見たことでしょう。それは彼の務めの中に大いに豊かに現れます。パウロがまず第一に見たのは、あの死、あの恥に満ちた死、あの恐ろしい死は彼自身の死だったということでした。パウロは自分に対する神の御思いを見ました。それが彼に対する神の姿勢でした。パウロは言えたでしょう、「あのように十字架上にあるあの人、まったく不名誉と恥とどうしようもない弱さの状況の中にあるあの人、あれはすべて――私だったのです、あれは私だったのです、あれは私の人性に対する神の御思いだったのです。彼は私のために死なれました(ですが、その意味は「私の代わりに」であることはご存じでしょう)。彼が死なれた時、私も死にました。あの死は私の死であり、あれは私、タルソのサウロに関する神の御思いだったのです!」。ああ、何という革命でしょう!彼は自分自身と自分自身の能力を重んじていました。しかし、見て下さい、このように神はタルソのサウロを暴露しておられます。しかし、それ以上です。「彼は私の代わりに死なれました」。そして、それはある種の死であり、死に関する新しい観念でした。
さらにパウロは見ました。もちろん、私は彼の教えを第一に保っています。何かを読み込んだり、でっちあげたりしてはいません。あなたは座って、新約聖書から私が述べていることを、自分自身ですべて検証することができます。ある種の人の上に下された裁きであるあの死、あの恐ろしい死は彼の死だったことを彼は見ただけでなく、それはアダムにある全人類の死だったことも彼は見ました。パウロは何と述べているでしょう。「なぜなら、私たちはこう判断するからです。すなわち、ひとりがすべての人の代わりに死なれたからには、すべての人が死んだのです」。コニーベアは、「それは全人類の死でした(中略)『アダムにあってすべての人が死ぬ』のと同じことです」と述べています。これは主イエスの十字架に対する新しい観念です。それは私たちの死であり、全人類、もともと私たちが属している人類、全体の死でした――すべての人が死んだのです。しかし次にパウロは、イエスの死の場合、それは一巻のおしまいの死ではなかったことも見るようになりました。それは死を滅ぼした死でした。ある意味において、それは死の終わりだった死でした。「彼はすべての人のために死を味わわれました」これは真実です。しかし次に、「彼は死の力を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼされた」のです。
宇宙的十字架:宇宙的死
ですから、パウロが十字架に見た死の死から、死の死が生じました。キリストは復活させられて、永遠に生きておられます。そして、パウロはさらに見ました。あの十字架は、私たちが前に使った言葉を用いると、宇宙的死であることを見たのです。つまり、それは個人や人類を超えて、あの裁きが必要となったこの状態をもたらした悪の勢力の全領域に至ったのです。イエスは十字架に行かれた時、「今、この世(コスモス)の君は追い出されます」と言われました。そして後に使徒は、「彼は主権者たちや権力者たちを剥ぎ取って(中略)彼らを公にさらし者とし(中略)彼の十字架によって彼らに勝利されました」と言いました。宇宙的十字架、宇宙的死が天の下層の最果ての境界にまで触れて、死の力を持つ者、すなわち、サタンを滅ぼしたのです。
パウロは、神の啓示によって「彼の中に」啓示された神の御子を見た時、これをすべて見るようになりました。ですから、主イエスの十字架・復活・高揚というこの問題の中にさらに進むことにしましょう。
一、イエス・キリストの啓示は、私たちがすでに述べたこれら三つの点をすべて含んでおり、人類の運命(一方はキリストの外にある人類であり、その運命は裁きです。他方はキリストの中にある人類であり、その運命は栄光です)も含んでいます――
一、心の中に啓示されたイエス・キリストを見ることにより、パウロはこの経綸全体にわたるすべての真の務めの性質と力を見ました――
一、彼は今と来るべき諸々の時代における教会の性質と使命をも見たのであり、見始めたのであり、先に進むにつれてますます豊かに見るようになりました――
一、彼はこれらの三つの重大な点をイエス・キリストの御顔の中に、イエス・キリストのパースンの中に――すなわち、イエス・キリストの臨在と啓示によって――すべて見ました――
一、彼はこれをすべて見たのであり(これが今朝の要点であることを思い出して下さい)、人類の運命全体、諸世紀にわたるあの務め全体、時間と永遠における教会の地位と使命全体を見ました。しかし、それはみな主イエスの十字架を中心としていることをパウロは見たのです。
十字架はパウロにとって重大な、重大なものでした。「決してあってはなりません」と彼は言いました、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るようなことは(中略)私たちは十字架に付けられたキリストを宣べ伝えます(中略)私はあなたたちの間で、イエス・キリスト、十字架に付けられた御方以外、何も知るまいと決意しました」。なぜなら、この中身はみな主イエスの十字架にあるからです。イエス・キリストの十字架は人類の極点であることをパウロは見ました。イエス・キリストの十字架は古いアダムの種族の決定的瞬間であることを彼は見ました。暗闇(ああ、天然的暗黒以上のものです)の中にあるその所で神は言われました、「扉は閉ざされました、ある種の人類に対して扉は閉ざされました。これはその人類に対するゼロ回答です」。これを学ぶには一生かかります。聖霊が人生を握られる時、彼は常に私たちをこれに、この一つの事実に戻されます。そして、様々なこと等を指摘して、私たちの中で「それは主イエス・キリストの十字架を通して終わりました。十字架はそれに対して扉を閉ざしました。もしあなたがそれを持ち込むなら、あなたは十字架の御業に逆らっています」と言われます。
これらのコリント人への手紙だけでなく、ヘブル人への手紙においても、十字架を捨てて、神の御子を新たに十字架に付け、私たちの贖いの血を踏みにじるのは、恐ろしい、恐ろしいことです。ああ、使徒たちにはこれについて述べるべきことがたくさんありましたが、それは議論を巻き起こします。しかし、それは私たちの今朝の主題ではありません。しかし、そうなっています。兄弟たち、十字架はある特定の人類の種全体・型・方法に対して、永遠の「否」を突きつけました。聖霊は私たちにこれを教えようとしておられます。もしあなたが聖霊に対して敏感なら、聖霊が許されること、許されないこと、自分のなすべきことが、あなたにはとてもよく分かるでしょう。
ああ、特に若いクリスチャンたち、しかし私たちすべての人たちよ、聖霊をこのような方法で知ることは私たちにとって何と重要でしょう。あなたは色々な人の所へ行き、質問してまわります、「私はするべきでしょうか?してもよいでしょうか?することができるでしょうか?」。そんなことをする必要はまったくありません。もし誰かが「しても構いません」とか「してはなりません」とかあなたに言い始めたとするなら、彼らは間違ったことをしています。あなたは聖霊によって自分の心で知らなければなりません。もしあなたが御霊から生まれているなら、あなたは特定の事柄に関してあなたの居心地を悪くされる御霊によって知らなければなりません。御霊はあなたの耳に言葉を囁いて、「いいえ、あなたはそれをしてはなりません」と言われるのではなく、内側に語られます。「これに関して私は以前のように幸いではありません。これらのことをする自由を以前のようには感じません」。私が言わんとしていることはお分かりでしょう。聖霊はただあなたを十字架に連れ戻して、「それは無に帰しました。それは終わりました。それは古い人類に属しています」と再び述べておられるにすぎません。
兄弟たちよ、あまり詳しく述べ始めるべきではありませんが、主イエスの十字架は大いに実際的なものです。十字架はたんなる歴史上のものではありません。十字架はたんなるクリスチャンの信条の一つではありません。主イエスの十字架は圧倒的なものであり、恐るべきものです。これがどれほど真実なのかを学ぶには一生かかります。しかし、その事実は最初からここにあります。それはアダム族の決定的瞬間です。そしてさらに、十字架はこの世の君を決定的に征服しました。「今、全世界は悪しき者の中に横たわっています」と使徒は述べています。「全世界は悪しき者の中(に包まれています)」。もともと、私たちはあの領域、あの王国の中にあります。しかし、偉大な力強い十字架の御業は――「私たちを暗闇の権威の中から(中略)愛する御子の王国の中へと移す(移行する)」というこの移行を成就しました。もともと私たちはこの世の君のあの王国の中にありますが、十字架でイエスは「今、この世の君は追い出されます」と言われました。さて、キリストは何を言わんとされたのでしょう?悪魔の滅亡ではありません。私たちはこれをとてもよく知っています。悪魔はいなくなったわけでも、力がなくなったわけでもありませんが、それよりもよいことです。おそらく、あなたは、勝利の類や圧倒的勝利の類の存在をご存じでしょう。征服者になることもあれば、圧倒的征服者になることもあります。私は何を言わんとしているのでしょう?
あなたたちの多くは、アメリカにいて、おそらく、それについてあまり注意を払わず、それについてあまり知らないかもしれませんが、私たちの中には南アフリカのボーア戦争を生き延びた人もいます。それがどのように進行したのか、そしてそれが南アフリカをどれほど破壊・荒廃させたのか、あなたたちはご存じです。最後に、英国が優勢になって、ボーア人の将軍の何人かを捕えました。彼らの中にボサ将軍がいました。この名にあなたはピンとくるでしょうか?彼はボーア軍の偉大な将軍の一人でした。人々は彼を捕えて投獄しました。彼は征服されました。ボサが英国人とその習わし、生活を見て、彼らの真実を学んだ時、彼は変わり始めました。最後には、手短に述べると、彼は英国の最善の助言者・協力者になりました。ボサ将軍の人生は素晴らしいものです――どれほど彼は高い栄誉と敬意を受けたことでしょう。第一次世界大戦にまで彼は助け手として駆けつけました。英国に味方する偉大な助け手です。何が起きたのでしょう?ああ、確かに彼は征服されました――しかし圧倒的勝利だったのです。敵が協力者になったのです。
ああ、「それではサタンは私たちの味方なのですか?」とあなたたちは言うかもしれません。いいえ、彼は私たちの味方ではありません。この類推はここで破綻すると思います。しかし、新約聖書には何と書いてあるでしょう?「あなたたちに知ってほしいのですが、兄弟たちよ、私に降りかかったことは、さらなる進展のためだったのです……」。降りかかったこれらのことはサタンの活動でした。そして、主はサタンの働きを握って、ご自身の目的に役立つようにされました。これは圧倒的勝利です!
おそらく、私たちはむしろ、主が彼を一掃されること、彼の抵抗をまったく一掃されることを願うでしょう。しかし、主が天と地における全権能をふるって、最終的に敵を御旨に役立たせる方が優っています。これが圧倒的勝利者です。あなたも私も、彼が嫌々仕える僕であることを知っています。しかし、新約聖書全体にわたってこの通りです。例えば、「カエサルの家にいる聖徒たち…」云々のようにです。
十字架はこの世の君を公的にイエス・キリストに従わせたことがわかります。十字架は、呪いの下にあるこの世そのものに対する死の判決でした。(私はここでもパウロに従っています。)呪いの下にあるこの世に対する死の判決でした。イエスご自身、十字架に至った時、祈りの中で跪き、弟子たちの数名がいるところで、御父に心を高く上げて言われました、「私がこの世のものではないように、彼らもこの世のものではありません。私が祈るのは、あなたが彼らをこの世から連れ出されることではなく、悪しき者から彼らを守って下さることです」。この世は追放されます。この世の体系、この世の霊、この世の影響は、十字架によって追放されます。世的クリスチャンのようなものは存在しません。もしあなたが世的なら、あなたは自分のクリスチャン生活に矛盾しています。しかし、この通り、十字架はこの世の上に死の判決を下したのです。
これは消極面ですが、パウロがイエス・キリストの中に見た十字架は新創造のDデイ(D-Day)でした。「Dデイ」――これは何でしょう?解放日(Deliverance Day)です!ペテロはこの中を歩んで私たちに次のように言わずにはいられませんでした:
ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの神また父。彼は私たちを再生して、イエス・キリストの死者からの復活によって、私たちを生ける望みの中にもたらし、朽ちず、汚れず、しぼまない、あなたたちのために天に蓄えられている嗣業を得させて下さいました。あなたたちは神の力によって守られています。
このDデイ――は新創造のための新たな希望です。被造物は、イエスの死者からの復活により、十字架を通して、新しい命、新しい希望の中に入ります。
十字架に基づく御霊による務め
さて、確かにこれはみな、十字架についての遥かに大きな観念を私たちに与えます。この三つの点の基礎をすべて網羅することは私にはできないでしょう。ですから、務めと教会というこの二つを一緒にすることにします。よく聞いて下さい、この二つは十字架から発し、十字架固有のものなのです。十字架なくして教会なしです。十字架なくして務めなしです。ですから、十字架は聖霊が務めのために駐留される立場です。それゆえ、十字架がこれほど攻撃されている理由がわかります。それらの攻撃は、十字架の宣べ伝えを排除するためであり、十字架とは裏腹の外見を十字架に帯びさせるためです。
もしあなたが聖霊の力の中で十字架の生活を生き、十字架に付けられたキリストを供給するなら、聖霊はその上に臨んで下さいます!彼はその上に臨んで下さいます!聖霊が駐留される場所、聖霊が協力の立場を取って下さる場所を、あなたは知りたくないでしょうか?――彼がその立場を取られるのは常に十字架上においてです。十字架が基礎とならない限り、あなたは決して聖霊の豊かさを知る純粋な正しい知識に至りません。間違った正反対の多くの事柄のただ中にあって、十字架だけが唯一の避け所です。唯一の避け所です。何よりも私が知りたいのは、十字架がどこにあるのかということです。教え、理論、教理、聖書に記されているものとしての十字架ではありません。十字架は生活の中のどこにあるのでしょう?!聖霊が駐留されるのは、聖霊の力によって宣べ伝えられる、十字架に付けられたキリストです。
パウロは、「ここに神の知恵」(天からの最も賢い知恵)「神の力」(天からの最も強い力)がある、と述べています――それは「十字架に付けられたキリスト」です。繰り返しますが、十字架のメッセージはたんなる教理や教えではありません。それは人間生活についてのメッセージです。十字架を教えられるようになるには、私たちはそれを知り、それを経験しなければなりません。それは私たちの内に何かをなさなければなりません、私たちの内に劇的なことをなさなければなりません。宣教者、奉仕者、務めは、十字架に付けられた奉仕者もしくは器でなければなりません。与えられるものが十字架の教理ではないこと、それを与える人が十字架に付けられた人であることが、大いに明確でなければなりません。これは私たちを大いに探ります、そうではないでしょうか?
十字架についての私たちの会話に注意しましょう。ああ、十字架についてどう話すのかに注意して下さい。多くの人々が私のもとに来て、「私が十字架の教えに辿り着いたのはだいぶ前のことです。私は十字架のメッセージに辿り着きました」と言います。兄弟たち、十字架が何らかの「事柄」になってしまったことがわかります。「十字架は、聖霊によって、私の内に何事かをなしました。それによって、十字架は教理、理論、話題を遥かに超えたものになりました」と言える方が、どれほど遥かによいでしょう。「あなたがあまりに大声で話すので、あなたの言うことが聞こえない」という古いことわざ、古い格言があります。確かに、この格言には一理ありますが、私はあなたが述べていることを見たいのです。
そうです、務めは十字架の立場に基づく御霊による務めでなければなりません。聖霊は務めの中に何を許されるでしょう?彼は務めの中に何を許されるでしょう、務めの中に何を許されないでしょう?先に進むにつれて、あなたはこれについて多く学びます。私が宣べ伝えの分野に大いにのめりこんでいた昔のことです。それは十字架の一大転機の前のことでしたが、私は良い説教を準備するために熱心に働きました。説教を造り上げるために何でも掻き集めました。色々なところから引用や様々な詩を掻き集めました。後日、私は説教をしました。そして、説教のさなか、私は強調するためにある詩人から引用しました。するとその時、私の説教は底が抜けてしまったのです。すべて台無しになってしまい、私は最後に辿り着くためにもがかなければなりませんでした。私は家に帰って、これについて主に近づきました。その詩人(とても有名な詩人です)について調べた時、主は私に言われました、「その詩人は現代主義者であり、自由主義の神学者であって、キリストのパースンと贖いに関する偉大な数々の真理を信じていないことを、あなたは知っていますか?――それなのに、あなたは今朝彼を味方として引用して、あなたの説教を成功させようとしたのです!」。私はその日、一つの教訓を学びました。一生ものの教訓です。真に私たちが十字架の下にいるなら、親愛なる友人たちよ、御霊が許されること、許されないことがわかるようになるでしょう。十字架にはこのような意味があることを私たちは見い出します。あの領域では、すべての底が抜けてしまいます。私は細かすぎるでしょうか?ああ、務めに対してはそんなことはありません。私は務めの何たるかを定義しました(説教壇の務め、講壇の務めだけでなく)クリスチャンの機能についても定義しました――それはキリストを供給することです。キリストを与えること、これが務めです。そして、この務めは十字架から発しなければなりません。なぜなら、この務めはそこから始まるからです。パウロの務めはそこから始まりました。十字架があらゆる真の聖霊の務めの源でなければなりません。
さて、教会に関して、その性質と目的について、現在及び永遠にわたって、神はどのような御心をこの選びの器に関して永遠の昔から抱いてこられたのでしょう?それは何でしょう?神の御旨における教会の存在理由は何でしょう?それ自身が十字架のこのあらゆる意義の器、具現化となるためにほかなりません。その務めや奉仕者たちと同じように、教会もまた、十字架に付けられたキリストを宣べ伝えて、神を知るすべての知識を聖霊によって人々にもたらす、十字架に付けられた教会でなければなりません。その教会は十字架に付けられた教会です。ああ、十字架で起きた打撃をあなたたちは最初に見ました。この朝の黙想の最初に見ました――この世の人々だけでなく弟子たちに対する打撃でもありました。彼ら自身の人性が十字架でどれほど打撃を受けたのかを私たちは見ました。彼らは粉砕されて、主イエスの十字架に至った時、残っているものは何もない人々でした。主イエスの復活の中で、教会は始まります。彼は散らされた破片を集め、至る所でその器を再び一緒にします。しかし、それは別の立場に基づいてです。なぜ彼は四十日間とどまられたのでしょう?なぜでしょう?――確実に彼らを新しい立場の上に立たせるためです。新しい立場である復活の意義を確実に彼らに把握させるためです。また、どうして彼は彼らをはるかベタニヤに導いて、はっきりと見える様で彼らから離れて栄光の中に入られたのでしょう?――教会は新しい立場の上に、今や天的立場の上に、天的立場の上にあること、そして、教会の本部はエルサレムではないことを、彼らに知らしめるためです。教会の本部は天にあります!すべては今や天から支配されなければなりません。それは高く上げられたこの人のためです。彼がかしらであり、統治者です。しかし、それは天的です。
私はあなたに理解できない言葉を使っているでしょうか、それとも、あなたにとって嫌というほど知っていることでしょうか?キリストはこの新しい人類の代表者として天で任命されました。そして、天から遣わされた聖霊は、すべてを統治し、すべてを対処し、すべての事柄やすべての人の中で働くためです――第一に、古い人類とその発達を裁いて追放するためであり、第二に、この別の人類を開始・発達させるためです。これが聖霊がここにおられる目的です。
ヘブル人への手紙の著者は、これを父親、子供、息子に関してとても単純化しています。なぜなら、この手紙は「わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない」と述べているからです。主の懲らしめ――父親が自分の子を懲らしめるのと同じです。では、子を持つ父親であるあなたについてはどうでしょう、あなたは彼らをどのように扱っているでしょうか?さて、あなたはこのような言い方をしないかもしれませんが、これが新約聖書が言わんとしている意味です、「私はあなたを一人前にするつもりです。私はあなたを一人前にすることに取り組んでいます。私がしていること、私がそれを行う方法に関して、時としてあなたはあまり幸いに感じないかもしれません。しかし、私はあなたを一人前にするつもりです」。パウロはこの人々に向かって、「ただの人のようであることをやめなさい」と述べています。聖霊が発達させるために降臨されたのは、ひとりの人、ひとりの人間、「キリストにあって人の完全な身の丈」に至る人種です。これはパウロの実際の言葉です(そして、これは兄弟たちにあてはまるのと同じように姉妹たちにもあてはまります)。キリストにあるひとりの人です。みな、キリストにあるひとりの人です。「キリスト・イエスにあってみな一つ」という御言葉の完全な翻訳を翻訳者たちが私たちに与えていないことを、私は残念に思います。そうではなく、「みな、ひとりの人」です。それは男性です。「みな、キリスト・イエスにあってひとりの人」です。そして、聖霊の御業は私たちからひとりの人を造ることです。ああ、そうです、しかし、あの人にしたがっている人です。これはあの人性にしたがっているでしょうか?すべてはあの人性にしたがっているでしょうか。このためにイエスは地上に三年半おられました。人の中の人ですが、他のどの人とも異なります。すべては「御子のかたちに同形化」されます。
十字架に付けられた教会は一つの器、一つの道具である:御座に触れる
兄弟たち、私は間もなく終えることにします。しかし、私は、今と来るべき諸々の時代における教会の地位に大いに迫りたいと思います。これはとても大きな問題なので、私は一点に集中して、あなたを試して助けることにします。私たちは祈りの問題に集中することにします。私は確信していますが、なされるべきすべての回復の中で、私が今述べようとしている方法による、祈りの回復がとても、とても重要です。
親愛なる友よ、教会がその正しい立場にあり、適切に構成されるとき、教会の立場はいかなるものか、あなたは見たことがあるでしょうか?今、私は宇宙教会について述べているのではありません。それについてはこれが当てはまります。しかし、ある地元の教会について考えることにしましょう。キリストはどこにおられるのでしょう?――「彼は神の右手に座しておられます」。右手は何を意味するのでしょう?――権力の地位、権威の地位、統治の地位です。右手――彼はそこに「彼のからだである教会のかしら」としておられます。彼は天と地のあらゆる権威を賦与・授与されています!あなたはこれについて時々疑問に思ったことはないでしょうか?物事の成り行きを見て、地上のこの世におけるキリストの権威について疑問に思ったことはないでしょうか?これ――天と地のあらゆる権威――についていぶかったことはないでしょうか?さて、親愛なる友よ、主イエスの十字架・復活・高揚に基づいて適切に構成された、教会の一つの核をどこかの場所に―― 一つの核をどこかの場所に――あなたが得るとき、あなたは御座に結合されます。そして、その基礎に基づいて、そのような道具として、あなたが祈る時、あなたは地上で天上の事柄に触れることになります。私たちは何かを失ってきたのではないでしょうか?
私は以前、一九二五年の私の初のアメリカ訪問に関する個人的経験について、あなたたちに話したと思います。当時、私はまさに教会の偉大な諸原則について、十字架と教会について学んでいるところでした。そして、私はボストンのある教会の集会に話をしに行きました。私は自分のホテル、自分の部屋に入りました。そして、そこに入った時、戦いと暗闇と悪の恐ろしい感覚が私の上に臨みました。それはあまりにも恐ろしいものでした。しかも、私はすぐに奉仕しに行かなければなりませんでした。私は言いました、「具合がよくありません、このような状態で行って奉仕することはできません、何かが起きようとしています」。それは本当に恐ろしかったのです。アブラハムはいわゆる「大いなる暗闇の恐怖」を知っていました。それは私にとってそのようなものでした。そして私は、敵との戦いについて自分が知っている手段を用い始めました。たとえば、「神の御言葉である御霊の剣」を敵に対して用いることや、血潮に訴えること等です。しかし、何も起きませんでした。何も起きませんでした。私は、この霊の戦いを戦おうとして、その部屋の中を行き来しましたが、決して切り抜けられませんでした。私は主に叫びました、「主よ、これはどういうことでしょう?あなたは何を語っておられるのでしょう?私はあなたのみこころから外れてしまったのでしょうか?私はここにいるべきではないのでしょうか?これはどういうことなのでしょう、主よ?」。すると次のような明らかな返事が私に臨みました、「主の民のあなたのための祈りの中にとにかく立ちなさい」。さて、これはとても単純ですが、私は自分の部屋の中で言いました、「私は主イエスの御名によって、私のためにささげられている教会の祈りの効力の中に信仰によって立ちます」。するとそのようにして、この問題はすっかりなくなったのです!私たちは切り抜けたのです!
さて、話はこれで終わりではありません。私はロンドンの私の兄弟たちに書き送って、私の経験について彼らに話しました。一人の兄弟が返事をして言いました、「ロンドンとボストンの間の五時間の時差を考慮に入れて、それが起きた正確な時刻をどうか私たちに知らせていただけないでしょうか。それが起きた時間を私たちに教えていただけないでしょうか?」。そこで、それが起きた時間を私は彼らに書き送って告げました。彼は返事を書き送って言いました、「まさにその時、私たちは祈りのために集まっていました。私たちはあなたが大きな戦いに遭っているのを感じて、あなたのためにその戦いを取り上げて祈り抜かなければならないと感じました。そして、私たちはそうしたのです」。
さて、私が言わんとしていることがおわかりになるでしょうか?個人的経験を述べたことをお許し下さい。しかし、原則を見て下さい。さて、三千マイル離れていて――世界時間で五時間異なっているのに、教会が祈るまさにその瞬間、遠くで何かが起きます。天上の敵が影響を受けます――天の権威、そして地上の状況が影響を受けます――地上の権威、教会が御座に触れるのです!今そのようなものがほしいと思わないでしょうか?あの「天におけるあらゆる権威」の衝撃力の下に服すべき悪の勢力が天上にいるのではないでしょうか?諸教会から成る教会においても、あの「地におけるあらゆる権威」をもたらして諸教会を変える必要がある諸々の状況が存在するのではないでしょうか?教会はそのための器であり、そのための道具です!ああ、十字架の力と復活・昇天された主の権威というこの立場にある各地の集団が必要です!これが大いに必要です。あなたが自分の場所に戻ったら、これについて主に尋ねて下さい。ああ、いわゆる「祈りの戦い」や悪魔を直接攻撃する「技術」に注意して下さい。注意して下さい、彼はあなたを滅茶苦茶にしようとします。彼は自分の時を待っています。十字架の中に隠れなさい。覚えておいて下さい、これをなすのはあなたの力やあなたの知恵ではなく、十字架に付けられた器です。
しかし、ああ、主はその種の使命の回復を必要としておられます。それはこれで終わりではありません。来るべき諸々の時代における教会の使命を私は述べました――ああ、その時は悪魔に対抗するためではなかったかもしれませんが、過日私は御言葉を引用してあなたたちに「私にはその意味がわかりません」と告げました。その御言葉とは、「あなたたちは知らないのですか?」とパウロがコリント人たちに述べた箇所です。「私たちは御使いたちを裁くことになるのです」。私たちが御使いたちを裁くですって?これが意味するのは、御使いたちは悪を行っているとか、私たちによって永遠に裁きの中に入れられるということではありません。それが意味するのは統治です。何をなすべきか、彼らに何が要求されているのかを彼らに告げるのです。ああ、その意味、それが一体全体何を意味するのか、私にはわかりません。しかし、御言葉は「私たちは御使いたちを裁くことになるのです」と述べています。来るべき諸々の時代にわたって、キリストの管理上の道具となるのは教会です――そして教会は今、管理を学ばなければなりません。
私たちは学びの学校の中にいます。素晴らしい学校です、来るべき諸々の時代における…来るべき諸々の時代における、このような巨大な使命を成就することを学ぶ学校です。この学校はそのためです。そしてもし私たちが真に十字架を経て、聖霊の下に、油塗りの御霊の下にあるなら、そしてもし私たちがみな「一つ御霊の中で一つからだの中へとバプテスマされ」ているなら、もしそれが真実なら、(おそらく、バプテスマとは何なのか、油塗りとは何なのか、このからだとは何なのか、私たちはますます明らかになってきているでしょう)、もしこれが真実なら、私たちは今、聖霊の教育の下にあります。この教育は実際的教育であって、理論的教育ではありません。主が戻って来られるとき卒業するために、私たちは彼の教育の中にあります――卒業してあの使命の中に入るのです。この使命をもって私たちは召されたのであり、この使命に至るよう神のみこころにより永遠の過去から定められていたのです。それは来るべき諸々の時代にわたって彼の統治上の器となることです。
把握するにはあまりにも素晴らしすぎます!これはあなたの理解を超えているでしょうか?これは私の理解を超えています。しかし、これはパウロが教えていることであり、今、私たちと共に始まらなければなりません。「そして今」と彼は述べています。「天上にいる主権者たちに、神の多種多様な知恵を、教会において知らしめるためです」。これは素晴らしい使命です。しかし、私たちは何と至らないものでしょう。
さて、今朝、あなたたちが把握して取り組むには、きっとこれで十分でしょう。もっと多くのことを述べることもできましたが、今はこれで十分です。これについて沈思黙考し、黙想して下さい。親愛なる友よ、私があなたたちに述べようとしてきたこと、そして、主があなたたちに示そうとしてこられたこと、これはみな、主イエス・キリストの十字架についての経験的知識から発します。これはそうです。そして今や、十字架がその両面において何を意味するのか、あなたたちは見ています。どうかそれがたんなる主題、教理、教えではなく、あらゆる領域で力強い現実となりますように。祈りましょう……
主よ、私たちは次のことを大いに自覚しています。すなわち、私たちがこのような領域に触れる時、そこには戦いや争いを起こそうとするものが多くあって、それを話すことも聞くことも困難になってしまうのです。ですから今、この講座、この時の終わりにあたって、私たちは御座におられるあなたに向かって嘆願しなければなりません。どうかあなたの権威、あなたの力を行使して、これらの事柄を現実に、私たちの中で生ける現実にして下さい。一九六八年の集会のたんなる主題や、ある人々が彼らの務めの中で従ったたんなる題目にしないで下さい。しかし、おお、神よ、私たちを救い、あなたが語っておられる事柄の益の中にもたらして下さい。それを生き生きとしたものにし、私たちの中で力として下さい。どうかそれが地と天に影響を及ぼしますように。主イエスの御名の中で祈ります、アーメン。
ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。