T・オースティン-スパークス
聖書朗読:エゼキエル書四〇章二~四節、四三章一〇~一一節、マタイによる福音書三章一七節、一一章二五~三〇節、ヨハネによる福音書一章五一節、ルカによる福音書九章二三節、エペソ人への手紙四章二〇~二一節
このような神の子供の生活の起源は霊的です――「霊から生まれる者は霊です」(ヨハネによる福音書三章六節)。このような生活の支えも霊的です。「生ける父が私を遣わされ、私が父のゆえに生きているように、私を食べる者も、私のゆえに生きます。これは天から下ってきたパンであって(中略)このパンを食べる者は永遠に生きます。(中略)私があなたたちに語った言葉は霊であり、いのちです」(ヨハネによる福音書六章五七、五八、六三節)。
ですから、この生活の完成も霊的であり、霊の体ということになります。キリストの復活を私たちの復活の型として実際に取り上げることはできませんが、彼の復活の体の性質を私たちの復活の体の型として取り上げることはできます。キリストの復活は他の復活とは異なっていました。彼の体には罪がなく、それゆえ朽ち果てませんでした。「あなたは、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しになりません」(使徒の働き二章二七節)。彼の体の微粒子は保存され、生き返らされました。ですから、その体は復活の後も同じ体とわかるものであり、彼の十字架のしるしを帯びていました。そして、他の人もそうなのです!私たちの体は朽ち果てます。なぜなら、それはすでに朽ち果てているからです。「この朽ちるものは朽ちないものを着なければなりません」(コリント人への第一の手紙一五章五三節)。しかし、復活前の体と復活後の体には違いがあり、それは信者の生活の原則と一致します。この原則は次の有名な御言葉の中に示されています:
「あなたがまくものは、将来の体をまくのではなく、小麦であっても(中略)しかし、神は御旨にしたがってそれに体を与え、それぞれの種にそれ自身の体をお与えになります。(中略)天然の(魂の)体でまかれ、霊の体で復活させられます。天然の体があるのですから、霊の体もあるのです(中略)しかし、霊のものが最初ではなく、天然のものが最初であり、それから霊のものが来ます。(中略)私たちは天上のかたちを帯びるようになります。」(コリント人への第一の手紙一五章三七~四九節)
御霊によって私たちはまず生かされ、霊的に生きている者とされました。いのちの御霊によって私たちは罪と死の法則から解放されました。ですから、いのちの御霊によって完成され、その時、死ぬべきものはいのちに飲み尽くされます。
人の魂の体は何らかの方法で血と密接につながっています。ですから、体と魂には特別で独特な関係があります。旧約聖書で繰り返し強調されていることは、「いのち(魂)は血の中にある」ということです。新約聖書においても、特にヨハネによる福音書において(例:一二章二五節)、「いのち」と「魂」が置き換え可能であることからこれがわかります。このように人の現在の体は物質的・魂的、あるいは精神的・物質的であり、体に霊があります。しかし、「肉と血は神の王国を継ぐことはできませんし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことはありません」(コリント人への第一の手紙一五章五〇節)。医者はみな、「血は病の座である」と言うでしょう。これはこれまで述べてきた、「腐敗は常に魂の中にある」ということのもう一つの証拠にほかなりません。キリストの復活の体には血がありません。「私に触り、そして見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたたちが見るとおり、私にはあります」(ルカによる福音書二四章三九節)。
これは第一に、彼の子たる身分の証拠、証明であり、彼がご自身の霊によって生きて勝利を得、魂や魂の命に屈しなかったことの証拠、証明です。
「聖潔の霊によれば、死人からの復活により、力をもって神の御子と宣言された」(ローマ人への手紙一章四節)
ですから、復活の体は血―魂の体ではなく、霊の体なのです。これが霊のいのちの完成です。パウロは次のように述べて、これに言及しています、
「神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです。」(ローマ人への八章二九節)
この御言葉は前の御言葉から続いています:
「被造物は切なる期待をもって、神の子らの出現を待ち望んでいます(中略)御霊の初穂を持つ私たち自身も、自らの内でうめきながら、子たる身分、すなわち、私たちの体の贖いを待ち望んでいます。」(ローマ人への手紙八章一九、二三節)
私たちは霊の体がいかなるものか全く理解できません。しかし、それが私たちの今の生存形態の制約の多くから解放されていることはわかります。ここでの目的は、現在の様式の彼方にある生活を描写しようとすることではなく、ただ原則を指摘して強調することです。体のない霊と霊の体、体から離れた霊と霊化された体は、まったく異なります。ここでは私たちの知性は通用しません。
それから、すべての復活がこの復活ではありません。私たちの主は、「ある者たちは裁きの復活へとよみがえらされ、他の者たちはいのちの復活へとよみがえらされます」と言われました。いのちの復活は霊の体の復活であり、霊のいのちの完成、完全な結果です。この光に照らして見ると、魂と霊の違いを知ることは何と重要でしょう。魂に属する事柄である宗教と内なるキリストからである真の霊性との違いを知ることは何と重要でしょう。内なるキリストだけが「栄光の望み」なのです。
「見よ、私はあなたたちに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠るわけではありません。しかし、私たちはみな変えられるのです。」
この血液組織の特徴をまったく持たずに肉体がどうやって存在できるのかは、まさに奥義です。しかし、そうであることを私たちは告げられていますし、これに関連する他の御言葉もそうであることを示しています。たとえば、復活した人は「めとったり嫁いだりしません」(ルカによる福音書二〇章三五節)。これは魂と体の大部分を不要にします。今の生活状態に関する生殖力や生殖器官は、すべてなくなります。
しかしすでに見たように、霊には知識と行動のための、維持と活性化のための、それ自身の能力や機能があります。
かなり明白なことが一つあります。それは、サタンは復活を憎む、ということです。彼はキリストの復活に関する嘘の報告を広めることで、復活をあいまいにしようとしました。神の卓越した証しと証言は復活です。使徒が最高に強調したことは、「神は彼を復活させました!」でした。信者の最高の経験は復活です。ですから、サタンは神の僕を「しばしば死」の中に導くことを許されます(コリント人への第二の手紙一一章二三節)。そして、私たちは苦しみ、「自分自身の内に死という判決を持ちます。それは私たちが死人を復活させる神に信頼するためです」(コリント人への第二の手紙一章九節)。
これは魂が喜ぶ証言ではありません。魂は人の標準にしたがって、成功、達成、進歩、名声などを好みます。しかし、力に関する天の標準的規準はキリストの復活です。ですからパウロは、「それは私が彼と、彼の復活の力を知るためです」(ピリピ人への手紙三章一〇節)と叫びます。「彼の苦難の交わり」と「彼の死に同形化されること」が、この至高の力が示される演壇です。しかしそのためには、霊の人がこれを見て、それを大いに望まなければなりません!
私たちは「御霊の保証」(コリント人への第二の手紙一章二二節)を持っています。そうです、私たちの復活の体の保証を持っているのです。この保証は私たちの死ぬべき体の中にまであります。「イエスを死人から復活させた方の御霊があなたたちの中に住んでいるなら、キリスト・イエスを死人から復活させた方は、あなたたちの中に住んでいる彼の霊を通して、あなたたちの死ぬべき体をも生かしてくださいます」(ローマ人への手紙八章一一節)。死ぬべき体の中にあっても、体の復活の展望について、いま証しすることは可能なのです。
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