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土台のある都

T・オースティン-スパークス

第三章 天の幻からの逸脱の結果

私たちは教会のこの本質的な天的性質を示そうとしてきました。教会の天的性質は、教会に対する神の御旨に関する基本的な支配的法則です。エルサレムに対する神の取り扱いではこれが途方もなく重要な要素であることを、私たちは見てきました。この問題について読めば読むほど、また黙想すればするほど、ますますこれがエルサレムの歴史の背後にあることが分かるようになります。エルサレムとパレスチナは、この問題に関する堅固な証拠の塊を私たちに与えます。旧約聖書をざっと見ると、エルサレムが地位を得て、優位に立ったこと、あるいは復興したことは、天的性質を物語るこれらの要素と常に関係していたことがわかります。逆に、エルサレムが地位、力、栄光を失ったのは、地的・世的要素が優位になったためであることがわかります。

主イエスがエルサレムのただ中にやって来られた時、エルサレムは最大の転機を迎えました。その時、二つのものが顕著な形でその歴史の転機を印づけました。第一は、彼ご自身のパースンと生活の天的性質であり、第二は、ユダヤのビジョン、関心、関係の地的性質です。この対比は福音書の最も際立った要素の一つです。主イエスがエルサレムのただ中におられた時ほど、エルサレムの地的性質、地に向かう傾向が、明確・明白になったことは決してありません。彼はご自身のパースンによって天をもたらされました。彼は天的な一切のものの化身であり、彼の臨在のゆえに、その反対の状況が光の中に引きずり出され、まぎれもなく明らかにされたのです。

キリストと彼ご自身の民の天的性質

この二つのものの最初のもの、すなわち、彼のパースン、生活、務め、任務の天的性質については、ヨハネによる福音書が他の何ものにもまして示しています。ヨハネによる福音書は主にユダヤ教圏内の事柄と関係していることを、私たちは知っています。また、この福音書では、特別かつ強烈な形で、エルサレムが大いに関係していることを、私たちは知っています。この事実に対して、この福音書では、キリストの天的性質が他の何ものにもまして特に際立っていることがわかります。次に、彼ご自身の民に関する限り、この福音書は信者の霊的生活をあらゆる点で天的なものとしています。つまり、この福音書では、信者の霊的生活は天に起源があると見なされています。信者は新たに、すなわち、上から生まれます。その生活は天から維持されるべきものと見なされています。この生活のあらゆる関係は天的であるべきものと見なされています。この福音書では、主は苦労してご自身の民をこの世から得ようとしておられます。そして、ご自身の去り行く影――このような言い方をしても構わなければ――が彼らの上にとても重くのしかかるのを彼は許されました。そのためとうとう、「もう少ししたら、わたしはあなたたちから去って、父のもとに行きます」という彼の御言葉により、彼らの心は大いに悩み、苦悩するようになりました。しかし、これにはすべて、明確で周到な目的があったのです。それは、第一に、彼らの生活は天的生活であるべきこと、彼らの希望は地的希望ではなく天的希望であるべきことを示すためでした――なぜなら、彼らの心の悩みはほとんど、彼ご自身に関する彼らの世的期待のせいだったからです――そこで彼はこの世から、地から、彼らを連れ去って、彼らの希望を栄光の中にある彼ご自身にしっかりと結び付けられます。つまり、地的希望ではなく天的希望が彼らのものとなります。彼らの奉仕もまた天的奉仕として示されています。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたたちを遣わします」(ヨハ二〇・二一)。これにより、彼らへの委託を天的な基礎に基づく天的なものとされました。そして、地上における彼ご自身の使命の性質が、同じように彼らの使命――天的使命――の性質でもあることを、永遠に定められました。

これがみな十七章の心からの一つの叫びにいかに集約されているのか、また、この祈りの中で彼ご自身と彼らに関して、「彼らはこの世のものではありません」といかに何度も積極的に繰り返されているのか、私たちは知っています。彼の祈りはさらに、「彼らがこの世にある間、彼らをこの世から、この邪悪な世を支配している悪しき者から守ってください」という祈りでもありました。キリストと彼ご自身の民の天的性質が、エルサレムに本部を置くユダヤ教のただ中で、きわめて明確に示されました。そしてこの根拠に基づいて、地上のエルサレムはその最大の転機を迎えました。

ユダヤ教の地に向かう傾向性

二番目の点、すなわち、あらゆる面にわたるユダヤ教の地に向かう傾向性ついては、まぎれもなく、それがキリストを拒絶した背景・理由でした。そして、ヨハネによる福音書は、これも私たちに大いに明らかに示しています。地に向かう彼らのこの傾向性と、彼らの心をとらえていた歴史的伝統は、天的なあらゆるものに対する霊的盲目という結果になりました。盲目さは常に明らかになるものですが、この霊的盲目も様々な形で明らかになりました。ヨハネによる福音書は、この霊的盲目が妬み、嫉妬、偏見、憎しみ、狭量さや偏狭さ、疑い、激情という形で働くのを、私たちに明らかに啓示しています。これらのものがみな、ヨハネによる福音書の中で暴れ回っています。そして、そこではユダヤ人の悪しき面が暴露されています。キリストに関係するあらゆるものが持つ、天的性質というこの支配的特徴との関連でこれについて考える時、真に天的なあらゆるものに対して彼らがいかに徹底的に盲目だったのかがわかります。こうしたあらゆる形で働いたこの盲目さのゆえに、この国民は完全かつ決定的に彼を拒絶しました。そしてエルサレムは、この強化された宗教的な地的性質の働きの中心、座、焦点となりました。

私たちは教会と関わっていることを、ここで思い出した方がいいでしょう。あなたも私も教会にこの上なく関心を寄せています。私たちの大きな関心は、彼のからだである教会です。そういうわけですから、あなたも私も教会の性質は何か、真の教会を霊的に構成しているものは何か、知るよう深く努めるべきですし、知ってしかるべきです。これらのことが地上のエルサレムにあてはまり、天的なキリストと天的な教会に対して詳細にわたってこのように鮮やかな対比を成している以上、妬み、嫉妬、偏見、狭量さ、疑い、激情、憎しみ、そのようなものは、霊的盲目の印であることがとてもはっきりとわかります。これらのものは、よくても霊的近視眼の印です。逆に、霊的視力と霊的啓示は常に、妬み、嫉妬、疑い、偏見の不在という結果になることを、これは意味します。「私たちには天的光、啓示があります。天のキリストが私たちの心を照らしておられます」と言いつつ、これらのもののどれかがあるなら、それは矛盾です。その中にこれらのものが見つかるものは、天的な教会ではありません。

いま述べたこの状況が、キリストの時代に地上のエルサレムにはびこっていましたし、それ以降、この状況がエルサレムとユダヤ教の状況でした。今日もそうです。死者の中からよみがえったキリストについて、二つのことが言えます。(1)彼は二度とエルサレムにも、正式なユダヤ教にも現れませんでした。(2)彼は教会を地から霊的に連れ去って、その中心を天の彼ご自身とされました。しかしその後、二つの水準の上で、二つの線に沿って、本物と偽物の歴史が展開し始めました。第一に、霊的・天的なものである教会が、天の聖霊の直接的統治と支配の下で発展していきました。つまり、そのすべてが天から管理されるようになりました。第二は、人が管理する地的体系としての、偽りのキリスト教の発現です。この二つの線に沿って、キリスト復活後、歴史は進みました。使徒時代の直後に、この逸脱が認識可能になりました。

下にあるエルサレムは、この経綸の最初期から、教会に関するこの誤った思想、この誤った観念がきわめて強烈に表される座となりました。パレスチナ自体、キリストの時代以降、教会の天的観念に対するきわめて大きな暴挙を経験してきました。この黙想の前の章を締めくくるにあたって、私たちはパレスチナのこの焦点に関して、イスラム教がキリスト教を征服した歴史を引用しました。そして、当時イスラム教がキリスト教に勝利したのは、キリスト教の堕落のためだったことを見ました。キリスト教の堕落については、これまで述べてきたまさにこれらのこと――クリスチャンの間の分裂、争い、妬み、内紛――がその証拠です。そして、一つの堅固な団体であるイスラム教は堅固な戦線を張り、このような内紛や分裂とは全く無縁だったので、この分裂したもの、このバラバラなもの、この内的に崩壊しているものを圧倒することができました。そしてこの圧倒的勝利の座はまさにこの国の中にあり、私たちが述べているまさにこの都の周囲にありました。これ自体がとても強力な教訓です。つまり、地上のエルサレムが、霊的分裂によって生じた弱さの結果、征服されたことは、次のことが絶対に必要であることを示しているのです。すなわち、教会が普遍的優位性の地位に実際に昇るには、教会は天のエルサレムとして霊の中で一つでなければならないのです。この真理が新約聖書とどれほど関係しているのか、私たちは知っています。ああ、主イエスは、この世界の外に出て行って、彼の教会を彼と共に霊的に連れて行こうとしておられたとき、これらの不幸な聖くない状態のせいでエルサレムが滅びようとしているのを認識して、「それは彼らが一つとなるためです」(ヨハ十七・二一)と祈られましたが、これはどれほど必要不可欠だったことか。誤謬――イスラム教の誤謬であれ他の何らかの誤謬であれ、古代の誤謬であれ現代の誤謬であれ、既知の誤謬であれ新規の誤謬であれ――が有利になるのは常に、主の民の間の分裂によって生じた霊的弱さによります。そのようなものを寄せつけないでおけるのは、神の民が霊の一つの中に共に立つ時だけです。

前に述べましたが、エルサレムの歴史は次のことを示す堅固な証拠の塊を私たちに与えます。すなわち、神のエルサレムの支配的法則は天的性質であり、天的性質は間違いなく霊の一つであり、霊の一つは天的性質なのです。別の言い方をすると、あなたや私が地的考慮、地的水準に降りるやいなや、私たちの一つは攻撃を受け、破壊されることになり、したがって、民のための神ご自身の御思いが脇にやられることになるのです。

キリスト教界の地に向かう傾向性

イスラム教のキリスト教に対する勝利にこれが明らかに見られるだけでなく、歴史の別の一頁もとても強力な証拠、とても明確な絵図を与えます。それは十字軍の歴史です。百年間続きましたが、十字軍はキリスト教の歴史の中で最も不名誉な出来事の一つでした。もちろん、それは失敗する運命にあり、実際に失敗しました。子供の頃、私たちは十字軍や獅子心王リチャード等の英雄譚や物語を教わりました。しかし成長してから、私たちは自分でその物語を読みました。そして、私たちの子供じみた憧れはすっかり消え失せました。そして、物事を神の観点から理解するようになるにつれて、キリスト教の歴史のその頁を振り返るたびに、私たちまますます恥じて赤面するようになりました。パレスチナをキリスト教に取り戻そうとして、強力な軍隊が集められ、大虐殺が行われ、教会の名によって破壊と虐殺がなされたのです。そんなことがあってはなりません!それは物事を行う天的な方法ではありません。私たちの戦いは肉や血に対するものではありませんし、私たちの戦いの武器は肉的なものではなく霊的なものです。「わたしの王国はこの世からのものではありません。もしわたしの王国がこの世からのものだったなら、わたしの僕たちが戦っていたでしょう……」(ヨハ十八・三六)。これらが天のエルサレムの基盤的諸法則です。今日のパレスチナはおぞましい見世物です。キリストの地上生涯と何らかの形で特別に関係している場所はすべて、悲劇的なことにキリスト教であると不当に称されているものどころではないものによって印づけられています。恥ずべき不当なものが真理のすぐ近くにあります。それは教会と称されているものであり、その中では対立がとても激しいため、クリスチャンたちの安全のために、その敷地内だけでなくその周囲にも、兵士を配置しなければならないほどです。

あなたたちの多くはモルトンの「主の歩みを辿って」という本を読んでおられると思います。私が言わんとしていることを説明するために、そこから一つか二つの断片をあなたたちに与えることにします。ここで彼は彼のエルサレム訪問について、聖墳墓教会訪問について述べています。彼はこう言っています――

「この教会は、暗闇と老朽化の圧倒的印象を人に与える。その通路はとても暗かったため、私は自分の道を見いだすためにマッチを何本も擦らなければならなかった。石、木、鉄はどこも老朽介していて、幻想的だった。私はキャンバスの上で朽ちている数々の絵を見た。私はまた、まだ枠組みは残っているものの、白く色あせている数々のキャンバスを見た。その絵の具の最後のかけらは剥がれ落ちていたが、それらは依然として所定の位置にあった。石や大理石には不吉な亀裂やひびが入っていた。『極端な宗教的情熱が極端な放置とまったく同じ影響を及ぼせるとは何と奇妙なことだろう』と私は思った。聖墳墓教会が老朽化してボロボロの雰囲気を帯びているのは、次の単純な理由による。一枚の絵を掛け直したり、一つの石を修理したり、一つの窓を直すことですら、その共同体の人々から見て一大事なのである。それで彼らは無期限延期が可能な状況を引き起こしているのである。(中略)芸術と俗悪さが並立している。ある皇帝の贈物である貴重な杯が、クリスマスツリーから引き抜かれたと思われる安っぽい薄片の隣にある。そして、古びた金の輝きをぼんやりと放つ数百のイコンが、ロウソクの滴を、聖徒や王の堅苦しいビザンチン風の姿の上に受けている。

ギリシャの修道僧たちがロウソクの明かりの方に向かって吊り香炉を振り動かすと、彼らの香の青い煙が湧き出て、イコンや金色のついたてのあたりに漂った。大理石の床の上に跪いている礼拝者たちは、一連の異国風の宝石商店の前にひれ伏しているかのようである……。

ここは磔殺の丘、地上で最も聖なる場所であるカルバリだった。その昔の面影の跡を見つけられるのではないかと期待して私はあたりを見たが、それは信心深さを装う息の詰まるような装飾品の下に永遠に消し去られていた。その前に私が跪いた礼拝所は十字架建立の礼拝所であり、その隣の礼拝所は十字架釘付けの礼拝所だった」。

ベツレヘム訪問を振り返って、彼はキリスト降誕教会に入ったことについて述べています。これについて彼はこう言っています――

「教会は、イエス・キリストの出生地と思われる洞窟の上に建てられている……

この教会は、聖墳墓教会と同じように、分割所有の問題に悩まされている。それはラテン系民族、ギリシャ人、アルメニア人の手中にある。

様々な教会が自分たちの権利に熱心なせいで、埃を掃くことですら時として危険な仕事になる。また、そこには三つの釘がある一つの円柱がある。その内の一つの釘にはラテン系民族が、もう一つの釘にはギリシャ人が絵をかけることができ、中間の釘にはいかなる宗派も何もかけることができない。

床に一つの星があり、その周りには『ここでイエス・キリストは処女マリアからお生まれになった』というラテン語の碑文がある。数年前にこの星が取り除かれたところ、フランスとロシアの間に紛争が起き、それがクリミア戦争へと飛び火した」。

要点はこうです。天のキリストを拒絶したこの場所は、偽りの教会、教会とは何かに関する誤った観念が現出する舞台、それが最も強烈に現出する舞台となったのです。すでに述べましたが、エルサレムにおいてキリスト教界の妄想が強烈に表されました。しかしそれは、神の御思いを表すことに失敗するとき、その結果実際にどんなことが起こりうるのかを示すものにすぎません。その程度は様々かもしれませんが、原則は同じままです。もし人が、聖霊の支配から少しでも外れて、神の事柄に侵入するなら、その結果、その程度に応じて死、分裂、混乱、矛盾が生じます。

私はこの文言を注意深く記しました。それは、これを正確に示すためです。これにすべてかかっているので、私はこれを繰り返すことにします。その程度は様々かもしれませんが、原則は同じままです。もし人が、聖霊の支配から少しでも外れて、神の事柄に侵入するなら、その結果、その程度に応じて死、分裂、混乱、矛盾が生じます!

ですから、人は退出しなければなりません。天的な人であるキリストが、神の家を支配する御子、教会のかしらでなければなりません。そして、彼の頭首権は、ただ天の聖霊によってのみ執行されなければなりません。ここでまた、十字架の絶えざる働きとその現実的活動が必要になります。それによって、肉的な人の領域全体と組織は排除・除外されます。次に、ここで聖霊の充満が必要になります。それは、教会が自分のために備えられている地位に至り、天から出て下って来て、神の宇宙の中心、この宇宙における神の統治の中心となるためです。

ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。