T・オースティン-スパークス
聖なる都、新エルサレムは、究極的に完成・成就・栄化された神ご自身の民の性質であることを、私たちは見ました。
彼は今、十字架を通して、永遠の御霊によって、この都を建造されつつあります。ご自身のかたちに、御子のかたちに、個々の構成員を形造られつつあります。このために私たちは定められました(ローマ八・二九)。神の民はキリストを明確に示すものです(二コリント三・四章)。
都の門
黙示録二一章では、この都の門の数、寸法、位置、性質に関して、たびたび述べられています。それらの門の場所は、この都の建設者・設計者である神によって定められています。
門は、聖書全体を通して、ある霊的特徴の象徴です。それらは協議を象徴します。古代、王たち、支配者たち、長老たちは、都の門の所に座って、民の問題や王国の権益について検討しました。アブサロムは都の門で国の指導者たちと会いました。
キリストは言われました、「私は私の教会を建てる。ハデスの門も、それに勝つことはない」(マタイ十六・十八)。
教会が力を帯びているときはいつでも、ハデスは活発に協議して、その力が前進するのを妨げ、妨害し、邪魔しようとしますが、それに打ち勝つことはできません。なぜなら、御座に着いておられる小羊は死とハデスの鍵を持っておられるからです(黙示録一・十八)。彼の教会は地獄の協議をすべて覆す、と彼は言われました。地獄の武器の刀身には「栄えることはない」と記されています。主がそのように布告されたのです。
聖なる都、新エルサレムの門で、神の協議が開催されます。主はそれらの門で統治されます――主は御心の秘密の御旨によってご自身の民と結合されています。ですから、これらの門は主の御心の深遠な秘密との交わりに入ることを表しています。そこで主はご自身の指導者たち、長老たちと共に集まって、内なる秘められた事柄について議論されます。それらの事柄を知り、理解するのは、交わりと願いにおいて実際に彼と一つである者たちだけです。市民と王座の権益に関する諸問題について、この者たちと話されるのです。望む者はみな、この交わりに入ることができます。この交わりは、彼の思い、意図、目的と共にあるすべての人のためです。これは、彼の御心の内なる事柄についての、彼との交わりです。
聖書全体を通して「門」という言葉を辿ると、大いなる豊かさが見いだされます。そして、神の家の門について辿り尽くすと、そこに霊的な諸々の要素が見いだされます。「あなたの門は賛美であり」(イザヤ六〇・十八)。主との全き交わりがある時は常に賛美です。「門よ、あなたたちの頭を上げよ、永遠の戸よ、上がれ。栄光の王が入って来られる(中略)強くて力ある、戦いに力あるエホバ、万軍のエホバ、彼は栄光の王である」(詩篇二四)。主は協議の門を通って入って来られ、ご自身の栄光を表されます。
力も御言葉では門と関係しています。主の御心を知ることは力ではないでしょうか?神のみこころと一つであることはなんという力でしょう。彼の御思いと御旨との交わりの中に入れてもらうことは、なんという力でしょう。それはなんという力でしょう。確かに、主が求めておられることを知る時、門には力があります。不確かさは常に弱さを招きます。鉄と青銅の門(詩篇一〇七・十六)は力と抵抗力を物語ります。
苦難と尊さ
門はまた尊さを物語ります。「門はみな一つの真珠でできていた」。真珠はどのように形成されるのでしょう?カキの殻の開口に刺さった小さな一片の砂粒によってです。これがカキを傷つけて刺さり、カキは血を流します。この血が他の諸々の要素によって作用して、真珠が形成されます。しかし、それはまさに自分自身の命を与えて、この価値あるもの――真珠――を生み出します。
神の御言葉では、「真珠」は偉大な愛に関して述べられています。彼はご自身の教会の中に天のあらゆる栄光に優るものをご覧になり、天の栄光を放棄して苦難と死に至り、ご自分の真珠を獲得されました。ご自分の教会を獲得されました。彼は彼女が高価な真珠であることをご覧になり、苦難を受け、血を流して教会を獲得されました。マタイ十三・四五、四六、ピリピ二・一~十一、エペソ五・二五~二七。
ですから、このように彼の秘密の御旨にあずかって、私たちは彼の苦難の交わりをある程度知らなければなりません。確かに、一つの道しかありません。十字架による死です。しかし、死に勝利する命、復活の命に至ります。
主が苦難を受けて死なれたのは、この民を得て、彼らをご自身の御心との交わりの中にもたらすためでした。その民は愛されている民であり、彼と共に彼ご自身の御旨にあずかります。ああ、主の御心に至ること、あのように愛してもらうこと、彼ご自身の御心の願いと一つであること、これこそ真珠の門の力・賛美・栄光なのです。
一つの道しかありません。人類の罪により、癒しの必要性に応じてくれるものが必要になりました。罪は病です。そして、それに応じてくれるものは、主イエスの尊い血以外にありません。他に道はありません。一方に対する死は、他方に対する命を意味します。十字架は命の門です。
門を守る者は十二人の御使いです。主は守る者であり、聖なる交わりと協議の門に関して命令を与えられます。彼はそれを守られます。
恵みを通してこの交わりの中に「自由に」入れます。恵みを通して主と一つになれます。私たちは門の開放性と城壁の排他性を持ちます。門は開かれていますが、それは神によって守られている交わりであり、それを汚すものは一切これらの門を通って入ることはできません。罪、死、滅びは、血がある所を通れません。血は勝利のうちに死を飲み尽くしました。
あらゆる点で透明であること
透明性はこの都のとても顕著な特徴です――
「エルサレム(中略)その光は水晶のように透明であった」(黙示録二一・十一)。
「その都は純金であって、輝く(透明な)ガラスのようであった」(黙示録二一・十八)。
「その都の通りは純金であって、ガラスのように透明であった」(黙示録二一・二一)。
「水晶のように輝く命の水の川」(黙示録二二・一)。
確かに、透明性はこの都の性質そのものです。そして、それは神のための生活のしるしです。水晶のように透明で、すべて澄みわたっており、暗さはまったくありません。
エレミヤ十七・九を見てください。「心はすべてのものにまさって偽るもので、ひどく邪悪である。だれがそれを知ることができよう?わたし、主は心を探る」。
恵みにより、私たちは暗闇の隠れた事柄を捨て去るように導かれました。神は私たちの心の中を、イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識の光で照らしてくださいました(二コリント四・一~六)。
マラキ三・三「彼は銀を精錬する者またきよめる者として座し、レビの子たちをきよめ、彼らを金のように、また銀のようにされる」。彼は必要な精錬を行い、ついにはご自分の純金を獲得されます。「シオンの娘たち(中略)エホバは彼女たちの隠れた所をあらわにされる」(イザヤ三・十七、アメリカ改定訳)。「イエスは言われた、『私は世で公然と語ってきた(中略)ひそかに(覆いの下で)語ったことはなにもない』」(ヨハネ十八・二〇)。「神はイエス・キリストによって、人々の秘密を裁かれます」(ローマ二・十六)。「その心の秘密があらわにされます」(一コリント十四・二五)。「剣があなた自身の魂を刺し通すでしょう。それは、多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」(ルカ二・三五)。
これらの節はみな、霊的成長に必要なある要素を強調しています。絶対的透明性がなければいかなる成長もありえないからです。霊の事柄の歴史はすべて、光と暗闇の状態の対比です。真理と偽りの、純粋さと混合の、明るさと曇った状態の、開放性と秘匿性の、実際と見せかけの、本物と偽物の、誠実さと欺きの対比です。これらの二者が、霊の歴史全体を通してずっと、互いに対立しあっています。
透明性は、一方において、徹底的なものであり、いかなる段階もありません。いかなる段階も真理にはありません。真理に至る道に段階があるだけで、ある人々は他の人々よりも真理に近づいています。しかし、真理は徹底的・決定的です。ですから透明性に関しては、もしその中に少しでも混ざり物があるなら、それは透明ではありません。透明性に至る道には様々な陰影を帯びた段階があるかもしれませんが、暗闇の影が一つでもあるなら、すべてが光ではありません。一つの小さな(地から生まれた)雲でも、透明さを曇らせます。これらの影や雲がやって来るのは、神の性質の栄光の領域ではない領域からです。
神の御旨は、雲や混合の形跡のないものを持つことです。ご自身の都を建造するために、彼は透明ではないものをすべて取り除かなければなりません。ですから、十字架の内なる働きが必要なのです。
人を測るものは、その人が神の御前でどうあるかであり、ただその尺度だけが主の御前で価値があります。私たちは互いに様々な異なる尺度を持っているかもしれません。そして、思わぬものを見いだすと、ショックを受けます。唯一の尺度は私たちの互いの尺度ではなく、いかなる人も近寄れないあの光の中にある主の尺度です。それに適合しようとしさえするだけで、私たちは主の御前で安息を見いだします。神の目から見て真実であるもの、それが決定的に重要です。私たちに対する神の取り扱いはみな、この性格の透明性と関係しています。また、彼の御旨と関係しています。彼の御旨は、徹底的に透明な民をご自身のために獲得することです。その民は、純金の、水晶のように輝く、神の性質にあずかる者たちです。
ヤコブと、神が彼を取り扱われた方法とを見てください。なぜ神はあのように彼を取り扱う必要があったのでしょう?彼は主の証しと関係しており、それゆえ透明でなければならなかったからではないでしょうか?
ヤコブの計略の道は主の開放性に場所を譲らなければなりません。もしヤコブが欺くなら、彼は必ず欺かれるでしょう。「神は侮られるような方ではありません。人が蒔くものはなんであれ、それをまた刈り取るからです」。これは法則です。彼の御旨は純粋なものを持つことです。そして彼は、私たちの内側にあるもので、私たちを地に打ち倒されます。そうです、私たちの内側にある透明ではないものが、私たちが陥る罠そのものになるのです。神に隠し事はありません。彼の御前ではすべてが明らかにならなければなりません。
遅延、妨げ、混乱、行き詰まり、これらはみななんらかの隠し事、なんらかの隠された動機、背後にある明確ではないなにかによります。あの暗いもの、雲や霧のように疑わしいものによります。それこそが、妨げ、混乱を引き起こすものです。それは絶対的真実ではないものであり、なんらかの隠し事です。それは神に属するものではなく、神から出たものでもなく、私たちの肉の領域から、地獄から出ています。
隠し事によって前進は阻まれる
この都は、そのようないかなるものとも一緒に進むことはできません。中心にある川から周辺の城壁に至るまで、すべてが徹底的に透明でなければなりません。こうした分厚い私たちの天然の命と、私たちの魂的要素はみな、邪魔して混乱させます。霊の絶対的透明性がなければなりません。霧がやって来るのは、私たちが神と人の前で全く透明ではないからです。クリスチャンの交わりはこれによって破られます。霊的真理を理解しそこなうのはこのせいです。透明性の欠如によって神聖な啓示は妨げられます。開かれた天がないからです。
神の御前で告白することを御言葉が強調していることに、あなたは気づいているでしょうか?告白しない限り、主との関係を築くことはできません。なぜでしょう?彼がそれを要求しておられるからです。それはあの暗い事柄を明け渡し、認め、神の光の中にもたらして、裁いて取り除いてもらうことだからです。主の御前で告白しない限り、決して自由は得られません。これは原則です。
霧は救いようのないものであり、天の輝かしい光を一筋たりとも吸い込みません。主に告白することと、イエス・キリストの尊い血による清め以外のなにものも、霊の霧を晴らせません。なにも隠さないこと、明確で真実ではないものをなにも持たないこと、これが霊の成長の法則です。
私たちのこの肉は、蒸気を発するガスの汚水槽です。そして、これらの肉の蒸気は神の御顔を隠し、それを霧・霞で覆うため、晴れわたった道を力強く進むことはできません。高ぶりにより、主の子供たちの多くは、豊かな命と光を奪われてきました。そして、霊的高ぶりは最悪の高ぶりです。高ぶりほど盲目にするものはなにもありません。
怒りは、湧き上がって私たちを地へと引っ張る肉の手段です。怒っているとき、肉を締め出したままにできるでしょうか?この肉的怒りの勃発によって、どれだけ多くの交わりが損なわることでしょう!潔白な聖なる怒りは高尚です。しかし、私たちの怒りの多くの背後には、私たちの肉という汚水槽があるのです。
不信、疑い、盲目な霊の目と疑いは、交わりを破ります。これらの霧はみな私たちの肉から生じて、私たちを神の栄光に対して盲目にします。そして、輝く証しに必要不可欠なあの透明さを妨げます。神の民が神が願っておられる状態にある時、透明性は彼らの主要な支配的特徴です。
この都には一本の通りしかありません。「都のその通り(the street、単数形)は純金であって、透明なガラスのようであった」(黙示録二一・二一)。これは主の民の交わりを物語っているのではないでしょうか?交わりの唯一の道……御言葉の中で道がいかに交わりを示しているのかを見てください。
「水晶のように輝く命の水の川」(黙示録二二・一)。これは絶対的に透明な命の証しです。透明さは内側から始まり、次に、そのようなものとして自然に流れ出ます。
「神の御前で、すべての人の良心に、私たち自身を推薦するのです」(二コリント四・二)。「神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩くなら、私たちは互いに交わりを持ち、御子イエス・キリストの血が、すべての罪から私たちを清めます」(一ヨハネ一・七、アメリカ改訂訳)。「私を信じる者がすべて、暗闇の中にとどまらないためです」(ヨハネ十二・四六、アメリカ改訂訳)。
主は透明な水準に私たちを強制的にもたらそうとしておられます。また、聖霊は私たちをあらゆる真理に導くために来られました。聖霊だけが私たちの中にある暗い事柄を知っておられます。そして、神のものではない、私たちの内にあるその事柄を罪に定めて、自己の命のあらゆる形態に十字架を適用されます。それは私たちがその邪悪な事柄を告白して、尊い血によって取り除くためです。
私たちに対する神の御旨を見てください。それは神の都における交わりと奉仕です。彼ご自身の所有の民となることです。「彼は、愛の中で、御前に聖く傷のない者になるようにと、世の基が置かれる前から、キリストの中で私たちを選び、キリスト・イエスを通して、私たちを子たる身分へと、彼ご自身へとあらかじめ定められました」(エペソ一・四五、アメリカ改訂訳)。
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