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神聖な啓示の四大項目

T・オースティン-スパークス

第7章 御座に着いたキリストの偉大さ

「そしてソロモンは王として主の位に着いた。」(歴代誌上二九・二三)

「その時、雲はその宮すなわち主の宮に満ちた。祭司たちは雲のゆえに立って務めをすることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」(歴代誌下五・一三~一四、アメリカ標準訳)

今読んだ御言葉は私たちを再び新約聖書に向かわせます。「ソロモンは王としてエホバの位に着いた」。もちろん、予型としての限られた意味でそう言えるだけです。ダビデの位、イスラエルの家の位は、実にまさしく神の位でしたが、比較上とても限られた意味でそう言えるだけでした。エペソ書はこの旧約聖書の箇所を私たちのためにまたもや大いに解き明かしてくれる書ですが、この書が主イエスについて述べているのは以下の通りです。

「神はキリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自身の右に座らせ、あらゆる支配、権威、権力、主権の上に置き、この世ばかりでなく来るべき世においても唱えられる、あらゆる名の上に置かれました。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会にお与えになりました。この教会はキリストのからだであって、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です。」(エペソ一・二〇~二三)
この王座は比類ない絶対的なものであり、ソロモンの王座はそのお粗末な影にすぎません。「このような完全な意味で、イエスは王としてエホバの座に着かれた」と言うことができます。

主の栄光が宮を満たしたことのもう一つの面は、新約聖書において二つの方法で示されています。これが示されているのはまたもやエペソ書においてです。パウロは神の永遠の御旨に従って天上のキリストとその教会についてこのようにスケールの大きな徹底的調査を行った後、次のように偉大なまとめの言葉を述べました。

「今、私たちの内に働く力に従って、私たちが求めまた思うところのいっさいを、遥かに超えて行うことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が世々限りなくありますように。」(エペソ三・二〇~二一、アメリカ標準訳)「主の栄光が宮に満ちた。」
これが霊的に始まったのはペンテコステの日であることを私たちは知っています。主イエスは天上で大能者の右に上げられ、王としてエホバの位に座し、ペンテコステの日にその栄光が宮を満たしました。これは御子とその民の両方に関する主の御旨を示しています。

さて、これをみな少し適用することにしたいと思います。根本は王座についたキリストです。まさにエホバの位に着いておられるキリスト――すべてはこれから発し、流れ出ます。祭司たちですら務めをすることができませんでした。なぜなら彼らのための余地はなかったからです。主の栄光が宮を満たしました。主がその地位に着かれる時、他者のための余地はなくなります。主だけがその地位を保持されるからです。主イエスが真に主となられる時、他のものはみな出て行きます。これについては後でもっと詳しく見ることにします。ご自身の地位、神に定められた地位、神が常に思ってこられた地位に着いたキリスト――ここから私たちは開始するのであり、これこそ他のあらゆることの秘訣であり、鍵なのです。「それは彼があらゆることで第一位を得るためです」(コロサイ一・一八)。キリストが神によって定められた地位に着かない限り、あなたは決して霊的豊かさの秘訣を得られません。神によって定められた地位にキリストが着かれる時、私たちや他のものの余地はなくなるのです。

これは単純ですが、これこそ私たちのあらゆる問題の原因です。これに関して、主ご自身の民ですら、これを実行に移すにあたって相当な困難に直面しています。実にこれはみな、主がご自身の地位に着くという問題です。主がご自身の地位に着かれる時、主の宮に主の栄光が満ちる秘訣を私たちは得ます。豊かさの秘訣を得ます。

キリストが王座に着いた結果

(a) 神の民に安息が訪れる

さて、ソロモンを見るなら、そしてソロモンが王としてエホバの位の地位に着くのを見るなら、またその結果、結末、影響を見るなら、いくつかのことが極めて単純に示されていることがわかります。一つは、イスラエルが素晴らしい安息の時を迎えたことです。ソロモンは王としてエホバの位に座し、イスラエルは周囲の至る所で安息を得ました(列王記上四・二四~二五)。

もちろん(余談として述べると)、これらの点はみなそのほとんどが将来の時代と関係していることを私たちは覚えています。しかし、聖書には常に二重の面があります。経綸上の面と霊的な面です。ペンテコステの日に起きたことについてはすでに指摘しました。しかし教会はペンテコステの日以降、外面的な地的方法で安息を得たわけではありませんでした。外面的には安息どころではありませんでした――しかし、素晴らしい安息が教会の中に訪れたのです。その時から、使徒たちにもどんな変化があったのか、見落とすことはありえません。素晴らしい保証、素晴らしい確信、素晴らしい勇気と大胆さ、素晴らしい証しの効力があったのです。これはみな、彼らが安息に、内なる安息に入ったためでした。その安息はキリストが主であることを知ったことによって生じたものでした。「何があろうと、キリストは主です!」が彼らのメッセージであり、彼らの姿勢でした。「支配者たちや民が何をしようと、キリストは主です!状況がどうなろうと、良くなろうと悪くなろうと、キリストは主です!」。そして、彼らがそう証言した時、それは効力を発揮したのです。まさに彼らに敵対する状況が、それを証明する結果になったのです。サタンではなく、人ではなく、環境ではなく、軍勢ではなく、キリストが主だったのです!そこには深く静かな自信、確信、安息がありました。

私たちは多くのささやかな経験から、また神の御旨に対する口論という大きな危機により、次のことを知っています。すなわち、私たちが神の絶対的主権に服する時だけ、私たちの意志、願い、嗜好、好みが神に従って服従し――いやいやではなく、無理矢理でもなく、喜んで、自ら進んで、積極的に――神の主権に服する時だけ、素晴らしい安息が私たちの心の中に訪れるのです。安息が訪れない限り、栄光はありえません。この宮を支配しているのはこの「安息」という言葉です。「ああ、エホバなる神よ、あなたとあなたの力の箱が立ち上がって、あなたの安息所にお入り下さい」(歴代誌下六・四一)。「あなたの宮であなたの安息にお入り下さい」。この宮に安息が訪れない限り、いかなる栄光もありません。人々は箱を運び入れ、さおを引き抜き――さおが常に示していたのは動き、進展、休みなき道程でした――そして言いました、「ここが目的地です。私たちは旅の終点に達しました」。そして、主の栄光が宮に満ちたのです。

これはみな信仰の安息の絵図です。信仰の安息についてヘブル人への手紙は大いに述べています。キリストは王としてまた大祭司として御座に着いておられることを心で真に理解することにより、この信仰の安息が生じるのです。

一つ一つの面にあまり時間を費やすわけにはいきません。ソロモンの昇進から生じた一つ目の結果は、神の民に安息が訪れたことでした。

(b) 敵は無力化された

次の点は――前の点の一部ですが――敵はそれまで長きにわたってのさばり、ダビデはこの敵に対して常に戦い続けてきましたが、その敵がすべて無力化されたことです。ソロモンのこの昇進により、敵はみな大いに恐れて麻痺し、無力になってしまったかのようです。これにも霊的な面があります。新約聖書がみごとに示しているように、敵は活発に働き、力の限り攻撃して滅ぼそうとしていましたが、その結果はどうだったでしょう?敵は無力にもこれを維持できず、その栄光をまったく滅ぼせなかったのです。敵は大いに現実的な意味で無力でした。これが使徒行伝の物語です。敵がたくさんいて、いなくなることはありませんでしたが、この御名、この証し、このキリストに対して敵は何と無力だったことでしょう!敵の行いは敵自身の上に降りかかっただけでなく、主の御旨に役立つものとされました。ですから、この二重の意味で敵は無力だったのです。キリストが実際にご自身の地位に着かれる時、敵がいて活動しているかもしれません。そして多くの害を与えて、好き放題しているように思われるかもしれません。しかし、キリストが主であるなら、キリストの主権が敵に対して立ち向かいます。そして、敵が自分たちの目的を遂げることや、自分たちの計画を遂行することを不可能にします。「神を愛する者たち、すなわち御旨にしたがって召された者たちには、万事が共に働いて益となります」(ローマ八・二五、アメリカ標準訳)。この「万事」という言葉は、敵の諸々の活動の大部分をも網羅します――敵の活動も主の主権的働きにより益となります。敵は勝利できないのです。

(c) 神の民のための豊かな富

ソロモンが王位に着いた結果生じた次の点は、神の民のための豊かな富です。以前の章で述べましたが、神により与えられたソロモンの富は莫大なものでした。「エホバは全イスラエルの目の前でソロモンを非常に大いならしめ、彼より前のイスラエルのどの王も得たことのない王威を彼に与えられた」(歴代誌上二九・二五)。前に述べましたが、これはソロモン自身のためではなく、ソロモンが自分の満足のために自分で使ってはならないものでした。それはイスラエルのためであり、ソロモンが王位に着いた時、イスラエルはソロモンの富の恩恵にあずかったのです。

ここでエペソ書とその姉妹書であるコロサイ書は私たちに告げます。神は主イエスを満たして、全豊満を彼の内に宿らせた、と。「御子のうちに全豊満を宿らせることを、御父は喜ばれました」(コロサイ一・一九)。ピリピ書には私たちの好きな節があります――「私の神はキリスト・イエスにある栄光の富にしたがって、あなたたちの必要をすべて供給して下さいます」(ピリピ四・一九)。キリストはまったく満たされており、この富はあなたたちのためです。イスラエルはソロモンに対する神の惜しみない御手の恩恵にあずかりました。ソロモンが自分の地位にあった時、イスラエルはその恩恵にあずかったからです。ああ、私は言葉をもて遊んでいるのではありません!誇張しようとしているのでもありません!私は信じていますが、私たちがキリストの富を知るのは、このように実際的な瞬間なのです。神の民はどこにいたとしても、キリストが自分たちに対してどれほど豊かな御方なのかを知らなければなりません。神の民は飢えて行き巡り、霊の食物を探しても見つかりません。神の民は今日、このような悲劇からどれほど救われる必要があることでしょう。神の民は弱々しく、不毛で、自分たちを通してこの世に及ぼす神の衝撃力に欠けています。これは彼らが豊かではなくて出し惜しみしていること、彼らが力ある民ではないことを示しています!これが今日のおおよその状況ですが、こんなことがあってはなりません。神の民が自分たちのために神が御子の中に蓄えられたこの富の恩恵にあずかること、これが神の御思いです。キリストがご自身の地位に着かれる時、私たちは彼にあって受け嗣いでいるものを知り始めます。

(d) 王国の拡大

ソロモンが王座に着いた結果生じた次の点は、王国の拡大です。神はこれを約束されました。ソロモンは拡大、取り組み、建造を始めたことがわかります。彼の王国は増し加わりました。議論するまでもなく、これは新約聖書にも及んでいて関係しています。主イエスが御座に着かれた時、その王国は直ちに拡大し始めました。この霊の王国の中に、神の愛する御子の王国の中に、私たちは移されました。

さて、要点はこうです。教会成長、神の働きの拡張・拡大の秘訣――これを何と呼びましょう?――は何でしょう?キリストに属するものが増し加わる秘訣、世界的に増し加わる秘訣は何でしょう?それはキリストの栄光、主権を理解することであり、キリストがエホバの王座に着いておられることを理解することです。これは次の道筋によります。第一に、キリストが主となって、ご自身の地位に着かれる時、その結果として、私たちは安息した民となります。もし私たちが悲しみや悩みという重荷を恐ろしいほど背負っているかのように、やつれた心配げな顔をして行き巡り、この世の前でその重荷を担うなら、増し加わり、成長、霊的拡大はあまりないでしょう。イエスは主であるという根拠に基づいて心に安息を得て、その心からの証しを私たちが担えるようになる時、この世は注目するようになるでしょう。ここに深刻な試みを通っているクリスチャンがいたとします。その人の生活状況はことごとく悪化してしまいました。状況は辛く困難であり、この人ほど神の愛、力、主権に疑問を呈する十分な理由のある人はいません。この世はその人に注目します。世人は何を見、何を聞くのでしょう?「救いたまえ、主よ、私たちは滅びてしまいます!」でしょうか?それとも、「まったく大丈夫です。主は御座に着いておられます。状況は見た目とは異なります。私たちはくぐり抜けます、勝利のうちにくぐり抜けます。これで終わりではありません!」でしょうか?圧迫、圧力、試み、逆境、矛盾を経た、静かな安息に満ちた確信、これによって王国は増し加わるのです。信仰の安息は証しの大いなる力であり、増し加わりという結果になります。私たちは他の人々に分かってもらわなければなりません。私たちはどうにかやっていける分だけでなく、たくさんのものを持っていることを。キリスト教に欠けているものを補ってくれるものを探して、エジプト――この世――に下って行く必要は必ずしもあるわけではなく、私たちはすでに十分持っていることを。私たちはこの世からまったく独立して満足を得ており、完全な満足を与える新しい源を持っていることを。その時、価値ある証しが生じます。私たちの多くはそうではない印象――クリスチャンであることはほとんどすべてを失うことであるという印象――を与えてきたのではないかと私は恐れます。私たちは自分の顔つき、歩み、影響によってだけでなく、自分の行いによっても、そのような印象を与えてきたのではないでしょうか。私たちはあれこれ渇望して追い求めているのではないでしょうか。また、私たちは「主はすべてを満たしては下さらなかった」という口実を設けて、あれこれ手にしない限り気がすまなかったのではないでしょうか?しかし、主が実際にご自身の地位に着かれる時、私たちは主の豊かさにあずかるようになります。そしてその結果、他の人々はその秘訣を知りたいと願うようになるのです。

キリストが王座に着かれる道のり

私は締め括らなければなりません。最後に述べたいのは次のことです。これはどうすればすべて現実に可能となって、経験できるようになるのでしょう?この安息、この富、この霊的豊かさを私たちは欲しており、敵が自分の目的を最終的に遂げられなくされることを私たちは欲しています。また、この地上で主の所有が拡大することを私たちは欲しています。しかし、それはどのように実現されるのでしょうか?その答えは――これは包括的真理です――キリストが主となって王座に着かれることによります。そうです、しかし、キリストはどのようにして王座に着かれるのでしょうか?これは何か形式的・客観的なことではありません――神はイエス・キリストを選んで王座に座らせましたが、これは神の主権的な公の働きでした。これは何か霊的なことであって、私たちの内側に直ちに適用されて意義を帯びなければなりません。キリストはこのように王座に着かれましたが、この事実は内なる意義を帯びなければなりません。そして、これは内側にある他のあらゆるものが対処されない限り実現されえません。ですから、キリストが王座に着いて、それと共にその意味するところのもの――勝利、安息、富、拡張、拡大――が実現されるかどうかは、祭壇すなわち十字架にかかっているのです。私たちはこれまで、この十字架がいかに偉大かを見ようとしてきました。しかし、ここでも十字架の偉大さを見ることができます。キリストの高揚の実際的結果もまた十字架にかかっています。私が言わんとしているのはこういうことです。すなわち、他のあらゆる主権がキリストに服するものとされない限り、キリストが主となってその恩恵がもたらされることはありえないのです。ここで言っている主権とは、私たち自身の心という王国の中の主権のことです。これを調べるなら、これは新約聖書のすべての書簡で展開されていることがわかります。新約聖書の各書簡は、イエスが持っておられる主としての正当な地位を見せています。そして次に、使徒はこの仕事に取りかかって、例えばコリント人に言います、「あなたたちは自分たちの証しを損なっています。あなたたちは霊的豊かさを知らず、真の安息について何も知りません。あらゆるものが制限されて、傷ついています。あなたたちが十字架に付けられた民ではなく、あなたたちの天然の命がイエス・キリストの道を邪魔しているからです。キリストが主となることができないのは、あなたたちが自分の天然の命の力で主となっているからです。それは十字架にもたらされなければなりません、あなたたち、コリント人よ」。「あなたたち、ガラテヤ人よ、あなたたちは旧約聖書、予型の支配が再び入り込んで自分たちを支配するのを許しています。律法が舞い戻ってきて、あなたたちはまったく別の立場に立つようになってしまいました。キリストはすべての律法を成就されましたが、あなたたちはキリストをその地位から追放し、恵みから落ちて、律法に逆戻りしてしまったのです」。「私はキリストと共に十字架に付けられました」というガラテヤ二・二〇の直接的意味が実際のものにならなければなりません。この文脈に気づかれたでしょうか?その直接的文脈は律法に関するものであり、律法の支配に関するものです。パウロが述べているのは、自分がいかに律法の下にいたのか、律法はどのように自分を支配していたのか、律法はどのように自分を束縛し自分の全生涯を制限していたのかということです。次に彼は言います、「私はキリストと共に十字架に付けられることにより、律法から逃れました。生きているのはもはや私ではなくキリストです。かつては律法がこの道を邪魔していました。私の生活の中にあったこの律法主義により、私はこの道を邪魔していたのです」。律法主義によって束縛されているクリスチャンは誰でも、イエス・キリストに対する障害であり、その御力の表れを制限しているのです。

原則として、この同じ調べはすべての書簡に見られます。古い天然の命に属する何かが道を邪魔し、制限し、損ない、すべてを矛盾した状態にしていたのです。それが何であれ、それはみな十字架にもたらされなければなりません。

あなたも私も、天然の存在は十字架の力の下に渡されなければなりません。十字架は私たちを道からどかさなければなりません。それはキリストがすべてを満たせるようになるためです。これがこの箇所の意味です。この祭壇、この大きな祭壇がソロモンによって設けられたこと、神の満足のための大いなる包括的な一つの供え物が予型としてささげられたこと、次に王が王座に着いてこの祝福された結果がことごとく続いたことがわかります。

親愛なる友よ、私たちが道を邪魔しているのであり、私たちこそ私たち自身の災厄であり制約なのです。この天然の命こそ、苦しみの真の原因です――しかし、力強い十字架があります。私たちは依然として言うことができます、「私はキリストと共に十字架に付けらました」と。この意義にあずかることはなおも可能です。自己の命、自己の力、自己中心性を根本的に砕いてもらうこと、私たちの天然の命の屋台骨――私たちの宗教的な天然の命、献身的な天然の命、あるいは天然の命であるものすべて――を実際に砕いてもらうことはなおも可能です。その時、天然の命の力は去り、王のための場所ができて、王がすべてを満たせるようになります。その実際の働きにあずかった経験から、とはいっても私たちの霊的経歴は微々たるものにすぎませんが、私たちは次のことを知っています。どこかの時点でこの霊的生活が対処され、引きずり降ろされ、砕かれない限り、霊的安息、霊的成長、霊的豊かさの生活に入ることはできないのです。十字架がそれを支配しています。十字架こそ御座に至るものだからです――祭壇から御座へ、御座からキリストの栄光に至るのです。

どうか主ご自身がこの御言葉を適用して下さり、この御言葉を通して語って下さいますように。そしてその結果、主が完全な地位、絶対的な地位を得て、私たちが御座におられるキリストのあらゆる祝福にあずかれますように。

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