T・オースティン-スパークス
エゼキエルの預言の書に向かうことにしましょう。初めに、この書のとても大まかな概要を示すことにします。しかし、ここで述べさせていただきたいのですが、私はこの書を丸ごと学ぶことは考えていません。その重大ないくつかの項目を取り上げるだけです。まったく考慮しない空白の部分もかなりあります。
さて、このエゼキエル書は聖書の中で最も理解するのが難しい本の一つです。最初の三章を読んだだけで、あなたたちにはこれがわかったと思います。ですから、私はこの書全体のとても大まかな概要を示すことにします。詳細については、あなたたちが自分で埋めることができるでしょう。
第一に、この書は何のためなのか、あなたたちは知りたいと思っておられるでしょう。この書の最初のページに、この書全体の意義の要約らしきものが見られるでしょうか?できると思います。この書は神の永続的な御旨に関する書です――神の御旨に関する神の力についての書です。もしこれを説明する新約聖書の御言葉を御所望なら、エペソ人への手紙一章一一節にあります。「御旨にしたがい、みこころの熟慮にしたがって、すべてのことを行われる方」。エペソ人への手紙の一章一一節はエゼキエル書の鍵です。エペソ人への手紙一章一一節の「行われる方」という言葉には強い意味があります。ギリシャ語はエネルゲオ(energeo)であり、「エネルギー」を意味します。ですから、神は「みこころの熟慮にしたがって、すべてのこと」にエネルギーを注いでおられるのです。特にこれを私たちはエゼキエル書の中に見ます――あなたたちはエペソ一・一一の光の中でこの書全体を読まなければなりません。先に進むにつれてこれがわかるようになると思います。
さて、この書の大まかな概要です。最初は預言者その人と、務めのための備えです。これが最初の三章を網羅します。預言者その人、預言者の幻、そして預言者の任命です。これらが一章から三章で網羅されています。次の区分は四章から二四章までです。この区分はイスラエルの国と関係しています。この国に関するこの区分には三つの要点があります。第一にイスラエル人が神から離れ去ったこと、第二に彼らが神を拒絶したこと、第三に彼らへの裁きです。次の区分は二五章から三二章までです。この区分は諸国民に関する区分です。真っ先に取り扱われるのは四つの国――アンモン、モアブ、エドム、ペリシテ――です。続いて二つの国――ツロとシドン――が取り扱われます。二八章の二五節と二六節に、イスラエルの復興に関するごく短い言及が挿入されています。それから、諸国民への裁きが続き、エジプトが裁かれます。
次に、第四区分に来ます。この区分は私たちをイスラエルの国に連れ戻します。この区分は三三章から三九章までです。この区分は見張り人、羊飼いたち、新しい秩序、枯れた骨の幻、最後の敵について取り扱っています。
次に、最後の第五区分に来ます。この区分は四〇章から四八章までであり、回復について見せています。この区分には、宮、主、宮の奉仕、川、土地、嗣業、都について記されています。さて、すでに述べたように、これをすべて学ぶことはしません。この概要をあなたたちに示したのは、あなたたちがこの書の全体像を理解するのを助けるためにすぎません。
さて、私たちの学びに戻ることにしましょう。私たちはこの第一区分にさらに時間を費やすことにします。この区分に大いに時間を費やすことが極めて大切だと思います。「この書の先に進んでくれればいいのに」と、あなたたちは時々言いたくなるのではないかと私は感じています。しかし、私は急いで基礎の大半を網羅するつもりはありません。私が望んでいるのは、この数々の根本的真理を私たちが真に把握することであり、これを確実なものにしたいのです。
ですから、最初の三章に戻って、務めのための預言者の備えについて見ることにしましょう。預言者は務めのためにどのように備えられたのか――これは私たちと大いに関係している問題です。なぜなら、エゼキエルに言えたことは、私たちにも霊的にあてはまるからです。昨日、私たちは彼の務めの時間的要素、彼が奉仕に召された状況、彼に個人的に臨んだ主の特別な言葉について見ました。
さて、今朝、私たちは「幻」に来ます。「私はケバル川のほとりで捕囚の民の間にいた。すると、天が開けて、私は神の幻を見た」と御言葉が述べていることに注目してください。ここで私は言いたいのですが、この数々の幻は主の僕たちの内に外形的に繰り返されることはないでしょうが、その数々の霊的原則や意義は私たち全員にもあてはまるものでなければなりません。私たちの目的は客観的なものの背後に回り込んでその意義に至ることです。私たちは常に霊的意義を目指して励まなければなりません。客観的な面は一時的方法にすぎず、さしあたって神が用いられる手段にすぎません。霊的意義こそ永遠のものであり、現実のものです。
預言者は神の道を見せられた
幻に来ることにします。エゼキエルは、「私は神の幻を見た」と言いました。これには二つの意味がありました。(1)幻は神から来たものであり、神が彼に賜ったものであるという意味と、(2)幻は神の動きについての幻だったという意味です。神は動いておられました。神はある道を進んでおられ、預言者は神が進んでおられる道を示されました。これが「神の幻」という言葉の意味です。しかし、彼が神の幻を見る前に、「天が開かれた」と述べられています。今朝、私はもっぱらこの点について話すことにします。しかし、これについて述べる前に、一、二点述べるべきことがあります。
エゼキエルに与えられた数々の幻は、時間も、性質も、方法も異なっています。つまり、これらの幻は様々なときに与えられたものなのです。これらの幻は一度にすべて預言者に与えられたわけではありません。主がこの預言者に何かをお与えになると、それにより預言者は主の御前にひれ伏しました。これが一章の終わりで述べられていることです。次に、主は彼を自分の足で立たせました。この類のことがしばしば起きました。私が言いたいのは、預言者の生涯にはいくつかの合間があったということです。そして、この合間の期間、預言者は自分に示されたことについて考え、主が見せてくださったことに自分を合わせなければなりませんでした。さて、兄弟姉妹たち、私はこの点を強調したいと思います。私たちの人生には、主の御前で過ごすこのような合間の期間がなければなりません。主が私たちに何かを示されたなら、私たちは時間を取ってそれについて考慮し、その意味や含蓄に向かい合わなければなりません。これは必要なことです。私たちがただ前進し続けるだけで、主が語っておられることについて主と共に静かに過ごすこのような合間の期間を設けないなら、その値打ちのかなりの部分は失われてしまいます。主が示してくださったことについて黙想し、それに自分自身を合わせるための、一種の安息日の静けさのようなものがなければならないのです。
主が何かを語られる時、私たちは行ってそれに取り組み、そのように行い続けて、主が実際に語っておられることについて考えるのをやめてはなりません――実際、主の語りかけが何を意味するのかを考え続け、それに自分を合わせなければならないのです。使徒パウロの生涯と務めのほとんどは、彼が荒野で過ごした沈黙の二年間に由来すると私は信じています。彼はダマスコへの途上、主の幻を見ました。それは途方もない幻であり、彼をひれ伏させました。彼がこの幻の意義に順応するには沈黙の二年が必要でした。この二年の間なにが起きていたのか、パウロは何に自分を順応させる必要があったのか、この幻の光の中でどれほど彼が聖書を何度も読み通さなければならなかったのか、私はしばしば推測しようとしてきました。彼はこの幻の光の中で自分の神学をすべて再構築しなければならず、この幻の光の中ですべてを再考しなければなりませんでした。私は信じていますが、私たちがパウロから受けているもののかなりの部分はこの二年間に由来するものなのです。
さて、私が言っているのは、「この訓練課程の後、あなたたちは二年間隠居しなければならない」ということではありません。しかし、ここに一つの原則があることがわかります。主がエゼキエルに語られた後、エゼキエルは七日間黙っていました。主が自分に示してくださったことについて七日間考えるまで、彼は自分の務めを続けることができませんでした。私が言いたいのは、主は私たちにすべてを一度に与えるようなことはなさらないということです。私たちが主が語られた御言葉を真に理解するまで、そして私たちが自分をそれに順応させるまで、主は待たれます。ここで私たちはとても重要な原則――啓示の合間の期間という問題――に触れます。エゼキエルの場合そうであり、彼は静かな時を過ごしました。朝の一時間だけでなく、しばしば彼は黙っていました。彼は何も言わず、ただ主と共に過ごしたのです。
次に二番目の点ですが、この数々の幻は異なる時に与えられただけでなく、性質においても異なっていました。それで、多くの種類の幻があるのです。これらの幻について、今は述べません。ただ言及するだけです。御座の幻、枯れた骨の幻、主の家の幻、大いなる川の幻、土地の幻、嗣業を受けた人々の幻、最後に都の幻があります。
エゼキエルは御霊から教わった
第三に、これらの幻は方法においても異なっています。これはしばしよく考えるべきことです。エゼキエルに臨んだこの数々の幻は二つの異なる方法によりました。第一に、これらの幻は客観的な方法で臨みました――物事が幻の中で彼に示されたのです。彼はパトモス島にいたヨハネのようであり、物事を客観的な方法で見ました。しかし、常にこのような方法によったわけではありませんでした。第二の方法があり、この方法により数々の幻がエゼキエルに臨みました。その方法とは御霊の教えであり、これはいっそう大いなる方法でした。もちろん、この二つの方法は常に別々だったわけではありませんが、確かに区別があったのです。
私たちの時代、この第一の方法はめったにありません。パウロは第一の方法で幻をいくつか受けました。コリント人への第二の手紙一二章で彼は言いました、「私は幻と啓示について話しましょう。(中略)私は一人の人を知っています。(中略)体のままであったか、私は知りません。体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです――この人は第三の天に引き上げられ(中略)口で言い表せない、人が語ってはならない言葉を聞きました」。さて、これはパウロにとって第一の方法でした。彼はこのように客観的な数々の幻を受けました。使徒ヨハネも同じ幻を受けました。しかし、これらの幻は例外的なものでした。この経綸時代、この類の幻を受ける人は私たちの間でもまれです。このような幻は通常、ことの始まりに伴うものです。この客観的な面は通常、始まりと関係しています。
パウロや他の使徒たちは、この経綸全体のための基礎を据えていました。ですから、彼らには例外的な面、いわゆる尋常でない面がありました。しかし、この経綸時代、何が通常の方法なのでしょう?主がエゼキエルに用いられた二番目の方法です。この方法は神の御旨の発展と関係していました。あなたが神の家、嗣業、都のように偉大な事柄に来る時、それをなさるのは常に御霊です。「御霊が私を中に導き、御霊が私を座らせ、御霊が私を外に連れ出し、御霊が私に示された」ことに注意してください。これはすべて御霊の動きです!今の時代、これが通常の方法です。主イエスご自身もこれが正常な方法であると言われました、「真理の御霊が来る時、彼はあなたたちをあらゆる真理の中に導きます。彼は私から受けて、それをあなたたちに示します」。新約聖書の残りの部分もこの道筋に沿っています。通常の方法は、御霊が私たちにすべてのことを教えてくださることです。
彼に対して天が開かれた
これは私たちをこの幻の最初の部分である「天が開かれた」に連れ戻します。さて、あなたたちはこれまで私が開かれた天について語るのをかなり聞いてきました。しかし、私は今朝、これについてさらに少し述べたいと思います。始まりの園の象徴で、罪を犯した人に対して天が閉ざされたことを私たちはみな知っています。園は天の王国を象徴します。それは神ご自身が創造された秩序です。それは天的な事柄の真の表現です。しかし、アダムが罪を犯した時、彼はその領域から追放され、その扉は彼の後で閉ざされました。その扉はアダムのすべての子孫に対して閉ざされたままでした。その扉の向こうが神のおられる所です。その扉の向こうが命のある所です。その扉の向こうが神聖な秩序のある所です。この扉の外は死です。この扉の外に神はおられません。この扉の外に神聖な秩序はありません。この扉は閉ざされました。アダムのすべての子孫に対して閉ざされたのです。
しかし、この扉は再び開かれました。この扉がいつ開かれたのか私たちは知っています。この扉は「人の子」なる御方に対して開かれました。彼が最初ナタナエルに語られた御言葉、「まことにまことに私はあなたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするするのをあなたは見るでしょう」を、あなたたちは覚えておられるでしょう。もちろん、これは一つの絵図です。それは旧約聖書から取られた絵図でした。ナタナエルはその意味を知っていました。それがヤコブの生涯から取られたものであることを知っていたのです。ヤコブは天が閉ざされている場所にいました。ベテルで彼は天が開かれるのを見、神の御使いたちが上り下りしているのを見ました。ナタナエルはこれをみな知っていました。
さて、イエスは「私がそのはしごです」と言われました。「私に対して天が開かれています。天と地、地と天の間の伝達はすべて私と関係しています。私を通してでなければ、誰も父のみもとに行くことはできません。私によらなければ、誰も父から何も受けられません」。また、ヨルダン川のほとりで、彼に対して天が開かれました。ヨルダンは彼の十字架の象徴です。主イエスの十字架により、一人の人が死に渡されて葬られました。その人は天が閉ざされていた人です。十字架のもう一方の面において、ひとりの新しい人なる御方が復活し、その人に対して天が開かれました。天が開かれたのは、新しい天的な人の種族である主イエスに対してです。
これこそまさに主がニコデモに言われたことであることを私たちは知っています。ニコデモはとても賢い人であり、とても高い教育を受けた人であり、とても宗教的な人でした。しかし、そこには別の面があり、それは務めと関係していました。務めのために天が開かれたのです。そして、エゼキエルの場合についていま述べているのはこのことです。彼にとって、この開かれた天は彼の務めと関係していました。これはあなたや私が理解する必要があることです。これは聖霊の特別な面です。私たちが上から生まれる時、私たちは聖霊を受けます。しかし、御霊の油塗りは務めと関係しています。イエスは聖霊から生まれましたが、務めのために御霊の油塗りを受けられました。御霊から生まれることと油塗られることをあまりはっきりと区別したくないのですが、それでもこの両者の間には違いがあります!
私たちの内におられる聖霊が務めに関して及ぼす効力は次の通りです。エペソ人への手紙で使徒パウロは教会のために祈っていますが、これがその意味です。あなたたちはこの御言葉をよく知っているので、私はあえて読むことはあまりしたくありません。しかしそれでも、もう一度見ることにしましょう。使徒は教会の召命についてこれらの素晴らしい事柄を述べていることに注意してください。これが見せているのは教会の偉大な召命です。たんなる信者の救いではありません――信者はすでに救われています。しかしここで、彼は教会とその偉大な務め、教会の今の務めと来るべき代々の時代の務めという問題を取り扱っています。これがエペソ人への手紙に書かれていることです。この書の内容は個々のクリスチャンに関するものではないことを、どうか理解してください。この手紙が個々のクリスチャンに当てはまるのは、教会との関係においてです。この手紙に書かれていることは何であれ、いかなる個人に対しても完全にあてはまるものではありえません。個々のクリスチャンが天上のあらゆる霊的祝福で祝福されることは決してありえません。あらゆる霊的祝福を受けるには、全教会が必要です。あなたがあらゆる霊的祝福の中に入るのは、ただこれとの関連においてだけです。すなわち、教会の他のすべての肢体たちとの交わりによってなのです。
これらの霊的祝福は何のためでしょう?ただ私たちの満足のためだけでしょうか?ただ私たちが祝福を受けるためだけでしょうか?この手紙を見ると、それは務めの用途のためであることがわかります。これにより教会は務めを果たします。今はエゼキエル書からエペソ書に移るつもりはありませんが、おそらく御霊は私たちをも導いておられます!さて、ここで使徒はこう述べています。「彼は高い所に昇られた時、ある人々を使徒として、ある人々を預言者として、ある人々を伝道者として、ある人々を牧者また教師としてお与えになりました」。何のためでしょう?――「奉仕の働きのために聖徒たちを整えるためです」――教会が務めを果たせるよう、教会を完全に整ったものにするためです。すべては教会の務めを目的としています。この務めのために使徒はこう祈りました、「このゆえに私もまた(中略)あなたたちのために絶えず感謝をささげ、祈りの中であなたたちのことを覚えています。どうか私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたたちに知恵と啓示の霊を与え、彼を知る知識を与えてくださいますように」――「彼を知る知識」とは、すなわち、キリストを知る知識のことです。また、ここの「知識」という言葉は「完全な知識」のことです。「あなたたちに知恵と啓示の霊を与え、彼を知る完全な知識を与えてくださいますように。あなたたちの心の目が照らされて、あなたたちが知ることができますように」(エペソ三・一前半、一・一六、一七、欽定訳及びアメリカ標準訳)。この後に、「あなたたちが知る」べき事が述べられています。
ここに務めに関する聖霊の働きが記されています。教会の務めに関連して、教会は心の目を照らしてもらわなければなりません(一八節)。教会は知恵と啓示の霊を持ち、キリストを知る完全な知識を持たなければなりません(一七節)。これがこの時代、教会の通常の生活でなければなりません。通常でない生活とは、物事がことごとく誤っていることではありません。教会は「彼の召しの望みが何か」知らなければなりません。教会は「彼の嗣業の栄光の富が何か」(一八節)知らなければなりません。教会は「彼の力の卓越した偉大さが何か」(一九節)知らなければなりません。教会が務めを果たすには、教会はこれを当たり前のように知っていなければならないのです!これが開かれた天の意味です。「知恵と啓示の霊」を与えられて、心の目を照らされることです。その時、私たちは御霊により、神の動き、神が取っておられる道、神が目指しておられる目的を知ることができるようにされ、神が「みこころの熟慮にしたがって、すべてのことを」行っておられることを知ることができるようにされます。
これが開かれた天によってエゼキエルが見るようになったものです。神には目的があります!神はこの目的に向かって進んでおられます!神の大能の力は、すべてこの目的に向かっています!天と地にあるこれらのものはみな、この目的に関連して治められています!これがエゼキエルの見たものです!この書は、目的に向かって突き進む神の永続的な力の書です。兄弟姉妹たち、私たちはこれを経験的に知らなければなりません!
これはエゼキエルにとって途方もない大きな代価が必要でした。これにより、まったく新しい道筋が開かれます。この書を読み通して、このために預言者がいかなる代価を払ったのかを見てください。ある時は、この幻のために妻という代価を払う必要がありました。彼の若い妻はイスラエルのしるしとして死にました。また、他の多くのことが彼に起きましたが、それらの出来事は彼にとってとても痛ましいことでした。開かれた天を持つには代価が必要です。私たちは同じような方法でこの代価を払うことはないかもしれません。しかし、私を信じてください。開かれた天によって、私たちは大きな苦難に巻き込まれます。開かれた天を持つ結果、開かれた天を持たない人は私たちのことを理解できなくなります。開かれた天によって、私たちは神の他の民から迫害を受けるようになります。エゼキエルにとって開かれた天はこれを意味しました。しかしそれでも、その価値は十分にあります!開かれた天を持つ人は誰でも、何を差し出されたとしても、それを手放そうとはしません。それをこの世のいかなる人気とも交換しようとはしません。開かれた天は人が持ちうる最も尊いものです――開かれた天とは、この類の交わりを神と持つことです――すなわち、この交わりの中で神は常に前進して絶えず新しいことを示してくださるのです。
もしあなたに代価を払う覚悟があるなら、主にこれを現実のものとしてくださるよう求めなさい。しかし、エゼキエルが最初の幻の直後に経験したのと同じ経験をしても驚かないでください。彼は言いました、「私は驚いて七日のあいだ座り込んでいた」。誰かが死ぬ時、七日のあいだ誰も清くありませんでした。人々は喪に服しました。まるで七日のあいだ死人同然だったのです。(聖書では、八日目は常に新しい命の日です。)しかし、エゼキエルは七日のあいだ死人のようでした――これは幻の途方もない影響のためです――この幻により彼はとても痛ましい時を過ごしました。ですから、あなたに困難な時が訪れても驚かないでください。さて、私が言わんとしているのは次のことです。私たちがこのように主と約束を交わすとき、主はこれを大いに現実のものとするために、通常私たちに困難な経験を通らせるのです。ああ、私たちの肉はこの幻を欲しません。私たちの肉はこの務めを欲しません。私たちの肉はあらゆる栄光を欲するのですが、主は私たちの肉に逆らって行動されます。そして、私たちは肉を死に渡される一時期を過ごします。そうするとき、務めは大いに安全になります。これは経験に則したことであり、これがエゼキエルの務めのまさに中心にあるのです。
ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。