T・オースティン-スパークス
「キリストはご自身を低くして、死に至るまで、実に十字架の死に至るまで従順になられました。」(ピリピ二・八)
これまで、主イエスの十字架の単数形の罪に関するこの面に専念してきました。また、この単数形の罪は暗闇の王国、サタンの王国の基礎、性質、力であることを見てきました。
今、単数形の罪の結果について一言述べる前に、単数形の罪の問題について、さらに包括的な一つの言葉を述べることにします。
罪の本質――神からの独立
この単数形の罪という問題全体はどのような結果になるのでしょう?それを一言で述べることはできるのでしょうか?私はできると思います。そして、その言葉とは独立です――神からの独立です。そうです。サタンの王国は実際のところ独立の上に建てられています。サタン自ら独立の道を行くことを決定しました。彼はサタンになる前、ルシファー、守護のケルブでした。聖書は、「あなたは造られた」(エゼキエル二八・十三)と述べています。造られた者は創造主より劣った存在であり、創造主に拠り頼まなければなりません。しかし、この者は神から独立すること、すべてを神ではなく自分を中心としたものにすること、自分が自分の主となること、自分が神となって、だれにも注意を払わず、だれにも従わないことを決定しました――絶対的独立を決意したのです。そして、彼がこのアダムの種族の中にもたらしたのは、この独立でした。「神はそう言われたのですか?(中略)それを食べると、あなたたちの目が開け、神のようになって、善悪を知る者となることを、神はご存じなのです」(創世記三・一、五)。彼の言葉は次のことを暗示していました、「どうしてあなたの目を開かないのですか?どうしていつも神に聞かなければならないのですか?どうして神のようにならないのですか?」。この示唆に人は屈しました。人は神が被造物に賜った最大の賜物――選択する力、意志――を用いました。人は自分に委ねられた大いなる賜物である自由意志を用いて、独立を選んだのです。
この独立の精神は多くの形で働きます。独立の精神はうぬぼれという線に沿って働きます。今日までの歴史は、何らかの形で、独立とうぬぼれの物語にほかなりません。人類の様々な時代や様々な領域で、この独立の精神が様々な形で現れました。この独立の精神が明確なはっきりした不敬虔という姿を取る所もあります。そこでは、わざと、公に、臆面もなく、人々は神を捨て去り、拒否し、否定します。今日、このようなことが地上の大部分を覆っており、強力に働いています――まったく神を認めない姿勢は、故意のものであり、はっきりしていて、神に何の地位も与えようとしません。他の所では、この独立の精神は人間の偉大さに関する思想体系によって表されることもありましたし、今もそうです。「イデオロギー」という言葉を私たちは頻繁に口にします。イデオロギーとは人間の偉大さ――人はいかに偉大な存在なのか、人はもともといかに善良なのか――に関する思想体系や構想です。人に自由と、便宜と、良好な環境を与えるなら、人がいかに素晴らしい被造物かわかります。人には素晴らしい能力、潜在的力、生来の善良さがある、というのです。これは人が神から独立していることや、人の盲目さを示す別の形にほかなりません。人は自分自身の必要を認識することができませんが、この事実は何よりも人の盲目さを示しています。
あるいはまた、この同じ独立の精神は宗教組織、活動組織、行いによる救いの中にも姿を現します。この独立の精神は積極的なものかもしれませんし、消極的なものかもしれませんが、どちらも同じです。その積極的な形――行いによる救いの宗教――はユダヤ主義、ローマ主義、その他の体系の中に見られます。パウロはこれをとても上手にまとめています。彼は肉にしたがっている兄弟たちについて悲しそうに言いました、「神の義を知らず、自分自身の義を打ち立てようとしています。彼らは神の義に服しませんでした」(ローマ十・三)。これが肝心な点です。彼らは独立の反対である神の義に服さなかったのです。この体系全体は、それがいかなる姿で現れたとしても、「私は何といい子だろう!」「私は色々なことを行いますし、色々なことを行いません。私がいかに善人か見てください!」という体系にほかなりません――自分自身の義を打ち立てようとしているだけなのです。
しかし、このサタン的なものが背後に必ず隠れており、主イエスはそれを明らかにされました。主は経札を広くする人々、市場で長々と祈る人々、孔雀のように自分の羽を広げて宗教的に練り歩く人々に対して言われました、「あなたたちは自分の父である悪魔から出てきた者たちであって、その父の欲望どおりに行おうとしています」(ヨハネ八・四四)。これは宗教に対してかなり辛辣ではないでしょうか?
あるいは、この独立の精神は消極的なものかもしれません。惨めな表情や哀れなやつれた姿で、貧苦の苦行を行ったり、へつらって乞い求めたりするものかもしれません。しかし、これは「私は何と良い子なのでしょう!私はとても宗教的で、あなたたち、他の人々がしないことをしています。私は祈りの人であり、節制の人なのです」と言う別の形にすぎません。これも同じことです。そのような人は、このような方法で――神から独立して――天に行けると期待しているのです。
あるいはまた、この独立の精神はきわめて巧妙な形で――神の真の子供たちの間に霊的高慢という形で――やって来るかもしれません。霊的高慢ほどひどい高慢はありません。主にとって霊的高慢ほど忌むべきものはないと思います。なぜなら、霊的高慢は遙かに勝った知識があるところに生じるものであり、まさに恵みの領域の中に生じるものだからです。もしこれが強すぎる言葉だと思われるなら、私たちは使徒パウロのような人と比べたら哀れでちっぽけな小人にすぎないことを思い出してください。霊的偉大さや神を知る知識という点で、私たちは彼に及びません。しかし、彼のような霊的巨人ですら、「そこで、私が高ぶりすぎないように、肉体に一つのとげが与えられました。それは私を打つサタンの使いです」(二コリント十二・七)と言ったのです。何らかの形の自己満悦が存在しています。常にあります。常に現存しています。そして、最大級の祝福が注がれている所ほど、その危険性も最大級であり、常に最大級なのです!主にとって祝福を私たちに委ねるのは何と困難なことか!私たちは何とうれしく思うことか!そうです、サタンが姿を現すのは、あらゆる領域の中で最も高い領域です――すなわち、神の子らの間です(ヨブ一・六)。そうです、天に姿を現すのです。私はこれを文字どおりの意味ではなく、霊的な意味に理解しています――すなわち、天上でサタンは神の子らの間に現れます。そして、主がご自身の民を用いて祝福しておられる時、サタンは光の天使に変装します。「これは素晴らしい!私たちは大したものだ」――このような霊的高慢が天で神の子らの間に存在しています。独立の精神――これが私たちをうぬぼれに陥らせようと狙っています。主が何かを行ってくださる時、不注意なことに私たちは、自分でも気づかぬうちに、知らず知らず、無意識に、うぬぼれに陥ってしまいます。これは何と恐ろしい罪でしょう!この罪を追跡して、最終的にこの罪を終息させることは決してできません。
さて、力は権威に基づくものであることがわかります。前に述べたように、自分と同類のものを追い出すことは決してできません。サタンは決してサタンを追い出せません。肉は決して肉を追い出せません。「もし家が分かれ争うなら、その家は立ち行きません」(マルコ三・二五)。権威は権利に基づき、権利は道徳に基づきます。ですから、神の王国は何に基づくのか、私たちは知らなければなりません。また、この二つの王国の間には、とても大きな隔たりがなければなりません。
独立の結果
(a)神に対する敵意
独立というこの言葉に要約されるものが必ず及ぼす影響、結果は何でしょう?神との私たちの関係に関する限り、それは第一に敵意です。それは神に対する敵意の総計とその本質全体であり、神の側もそれに対して敵意を持たれます。主に関する限り、いかなる形であれ私たちが独立しているなら、それは神との戦いを引き起こす一つの確かな要因となります。おそらく、一言付け加える必要があるでしょう。なぜなら、ここにいる人はおそらくだれも、主からの独立という道を故意に取ろうとはしないだろうからです。もしこの独立という問題が主とあなたとの間の直接的問題として現れるなら、あなたは独立しようとはしないでしょう。しかし、私たちはかなり独立的であり、しばしば主を侵害しようとしているのです。この独立の精神は様々な方面で現れます。ですから、主は彼の家を構成するにあたって、私たちが喜んで主に頼り、主に信頼し、自分の道を主に委ねているのかどうか、この家に関する事柄との関係からわかるようにされました。私たちが神の他の子供から独立した道を取っているなら、私たちは主に信頼し、主にすべてを委ね、主に拠り頼んでいるとは言えません。それは矛盾です。「神を愛していると言いながら、兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」(一ヨハネ四・二〇)。神に対するあなたの愛は、あなたの兄弟に対するあなたの関係によって証明されます。ですから、この独立の問題に関して、あなたは神の家のクリスチャンとの関係により、多くの実際的方法で試されます。私は「神の家」という言葉を霊的な意味――すべての信者の相互的関連性という意味――で用いています。それはこの道によります。
さて、この独立の精神は必ず、何か明らかに神に敵対するもの――敵意――という結果になります。独立の精神がサタンの性質である以上、サタンは神に対して敵意を抱いています。この敵意が私たちの内にもあります。私たちの内には生まれつき神に対する敵意が存在しています。ある適当な状況の中で試されるだけで、敵意が姿を現します。あなたに次のように尋ねるだけで、これは明らかになるでしょう。「これまでの人生で、あなたは主に委ねるのが困難な状況に出くわしたことはないでしょうか?あなたはこれまで常に、どんな環境、どんな状況、どんな試みや困難の中にあっても、いつも主に対して『わかりました』とごく自然に言えたでしょうか?」。しかし、地上に私たちはいます。私たちは無数の実際的な方法で試されています。この試みは、結局のところ、神に対する生来の敵意というこの問題に関して、私たちの内に何か克服すべき点がないかどうかを調べるためのものなのです。
(b)神との隔たり
もちろん、この敵意は隔てを生じさせます。これは最初の時からそうでした。この敵意がアダムの中に入った時、神は直ちに退かれました。こうして隔てが生じました。これは両者が距離的に遠くなることだけでなく、性質的に遠くなることでもありました。神は人をご自身から遠ざけなければなりませんでした。人もまた、自分は性質的に神から遠い者であることを完全に承知していました。再生されていない人の特徴の一つは、「神は遙か彼方におられる」と感じることです。神はどこにおられるのでしょう?――宇宙のどこか片隅です。神は遙か彼方におられます。新生した人の幸いな特徴の一つは、神は近くにおられると感じることです。この隔たりは縮まりました。神は身近におられます。
(c)無能さ
また、単数形の罪は無能さ、無力さを生じさせます。私たちがこれを理解しているかどうかには関わりなく、これは事実です。この事実は、現実に救いの問題が生じる時、直ちに、まぎれもなく、強烈な形で明らかになります。たとえあなたがこれまでタルソのサウロのように行いによる救いを徹底的に主張してきた人であったとしても、あなたの内なる命に救いが及ぶかどうかという現実問題になると、「私は自分の欲する善は行わず、かえって自分が欲しない悪を行っています。(中略)私はなんと惨めな人でしょう!誰が私をこの死の体から解放してくれるのでしょう?」(ローマ七・十九、二四)と言わざるをえなくなります。無能さと無力さ――これは単数形の罪の結果です。
独立の結果――死
これは直ちに私たちをその結果に、独立の何たるかに導きます。それは死です。死とは何でしょう?死とは存在しなくなることではないことを、私たちは知っています。死とは私たちの存在そのものの性質の変化であり、存在における私たちの関係の変化です。地上では、死とは「神は私に敵対しておられる」という恐ろしい感覚です。敵意が神を恐れる恐怖や不安として働きます。あなたは神の怒りに対する感覚に完全に目覚めます。死は敵意の領域です。これが死です。死とは隔たりでしょうか?――確かにそうです。遙か遠く離れていて、とうてい手は届きませんし、呼び声も届きません。あなたは神を得ることも、見いだすこともできません。叫んでも応答はありません。神は遙か彼方におられます。これが死です。あなたの意識がそれに対して完全に目覚める時、これが死であることがわかります。死とは無能さでしょうか?――希望も、頼りになるものも、力もありません。無力で、打ち捨てられています。これが死です。これが単数形の罪の結果です。
私たちは十字架に来ます。あなたは主イエスの十字架のこの面を理解しているでしょうか?十字架には二つの面があります。すでに述べたように、キリスト教は数々の逆説や矛盾から成る一つの体系です。一方において、聖書を読むと、十字架は最も恐ろしいものです――十字架は神の怒りと、暗闇と、恐怖の場所です。他方、十字架は主イエスが傷のないご自身を神にささげられた場所でもあります――それによって神は満足され、神がご自身の性質のゆえに心から願い求めておられたことはすべて完全にかなえられました。これが十字架のもう一つの面です。この二つのものがカルバリの十字架で出会います。そして、神は常にこの二つの面に関する数々の絵図を与えてこられたことがわかります。
罪の予型
(a)らい病
レビ記を見ると、この神との関係の問題が徹底的に取り扱われています。十四章には、らい病とらい病人に関する問題が記されています。らい病人とその家を清めるには、二羽の鳥が必要です。一羽の鳥を殺し、その首を折って、その血を注ぎます。この鳥を殺すのは、怒りを表して滅ぼすためです。もう一羽の鳥は、その血を振りかけられて、放されます。この鳥は生きます――この血に触れたのに生きるのです。らい病人がらい病から清められるのは、この方法によります――これは単数形の罪を対処する絵図です。らい病は聖書が示す単数形の罪の最悪の絵図です。単数形の罪はらい病であり、憎むべきものであり、その中に敵意のあらゆる要素が詰まっています。また、らい病は分離するものでもあります。それゆえ、あらゆる愛らしくて美しいものに逆らいます。その中には、あらゆる良いものに対する敵意という一つの要素があります。この敵意が分離に導きます。それで、この哀れならい病人は去らなければなりません。だれも自分に近づかないよう、らい病人は「汚れています!汚れています!」と空しく叫ばなければなりません。らい病人は打ち捨てられます。らい病人に何ができるでしょう?もちろん、今日、治療薬があります。私たちはらい病人を救うことができます。しかし当時、らい病人は絶望的で無力な者と見なされていたのです。
らい病人はどのように清められるのでしょう?らい病人の清めには二つの面があります。予型として、らい病人は裁かれて、主の御前から絶たれなければなりませんが、血を注がれることにより、生きることができます。これは同じ人のことであり、一人の人の二つの片割れのことではありません。一方において、らい病人は裁かれ、罪に定められ、神の御前から絶たれます。他方、らい病人は救われ、血を注がれます。裁きは過ぎ去り、死刑は執行されました。しかし、どういうわけか、「その土地から赤い花が咲き、永遠の命が生じ」ます。らい病人は救われます。
(b)贖罪の山羊
レビ記十六章に来ると、贖いの大いなる日の儀式が記されています。その中心は二匹の山羊です。祭司はこの二匹の山羊を連れてきて、主の御前に置きます。そして二匹の山羊のためにくじを引いて、一匹を主のために、もう一匹を贖罪の山羊すなわち「アザゼル」のために取り分けます。アザゼルとは、遺棄や放棄という意味です。後者の山羊は裁きのためであり、イスラエルのすべての罪がその上に置かれます。それは宿営から追放されてさびれた荒野に追いやられ、二度と戻って来ることなく、永遠に失われ、二度と決して見ることはありません。全聖書の中で最も痛ましい絵図の一つはこの哀れな山羊であると、これまで私はしばしば思ってきました。
しかし、もう一方の山羊――くじ引きで神のために取り分けられた山羊――は神に供えられます。
さて、聖書の中には、またヘブル語の中には、これに関して特に興味深い二つの言葉があります―― 一つは聖潔であり、もう一つは聖別です。聖潔は「神のために取り分けること」を意味し、聖別は「ささげること」を意味します。理由はわかりませんが、欽定訳聖書では翻訳者たちは奇妙なことに「ささげられた」というこの言葉を「呪われた」と訳しました。アカンが呪われたものを取ったことは覚えておられるでしょう(ヨシュア七・十~二六)。それはささげられたものでした。サウロはアマレクを――男も、女も、子供も、獣も――剣に「ささげる」よう命じられました(サムエル上十五・三、改訂訳欄外)。これは一つの事の二つの面です。一方の山羊は主に対して聖なるものとして、主へと分離されました。もう一方の山羊は、ささげられました。ああ、しかし、ささげるとは何を意味するのでしょう?裁きへとささげること、滅びへとささげることを意味するのかもしれません。アカンがそうでした。彼と、その家族と、その天幕と、そのすべての持ち物が滅ぼされました。彼はささげられ、聖別されました。今、あなたは聖別の新たな意味を知ったのではないでしょうか?聖別されるとは、主の御前から断ち切られるためにささげられることです。これが捨てられた山羊でした。ささげられて永遠に追放され、神の民の中に二度と戻ってこなかったのです。
十字架の意義
(a)私たちのために罪とされたキリスト
そこに十字架があります。今、十字架の暗い面を見ることにします。この面で何が起きたのでしょう?神の御子がサタンの立場を取られたと言うのは、あまりにも恐ろしいことでしょうか?彼は、サタンから人類の中に入り込んだまさにこの性質の立場、すなわち、敵意のゆえに神の怒りを受ける立場を取られました。彼は私たちの代わりに(単数形の)罪とされました(二コリント五・二一)。(単数形の)罪とは何でしょう?贖いの日の山羊に対する取り扱いに関して、こう記されています、「アロンは、イスラエルの子たちのあらゆる不法と、あらゆる違反と、あらゆる罪を告白して、それをその山羊の上に置き……」(レビ十六・二一)。彼らのすべての罪、彼らの違反(彼らの反逆)、彼らの不法(彼らの倒錯)は、その滅びの山羊の上に置かれました。反逆と倒錯――これはこの山羊の上に置かれました。これは、「死に至るまで従順であった」というこの御言葉に、新たな素晴らしい意味を与えるものではないでしょうか?なぜ主イエスの汗は血の雫のように地に落ちたのでしょう?罪に対して戦って、血を流すほどに抵抗する、という使徒の言葉は何を言っているのでしょう(ヘブル十二・四)。彼は御父の御旨にしたがって、反逆と倒錯になり、不法と違反の立場を取って、それらをすべて身に負われたのです。「彼は私たちの違反(反逆)のために傷つけられ、私たちの不法(倒錯)のために砕かれた」(イザヤ五三・五)。なぜ彼は、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」(ヨハネ三・十四)と言われたのでしょう?なぜ、上げられたのは蛇だったのでしょう?彼が十字架で受け入れるよう求められたものの性質がわかるでしょう。私たちは彼の真実さ、彼の真の姿、三年半の長きにわたる大変な辛い年月の間、彼がどのように邪悪なものをすべて拒んで、あらゆる悪に対して戦われたのか、知らなければなりません。彼は高慢になることを拒まれました。神から独立して活動させ、神から独立して王国を受けさせようと誘惑する、悪魔の誘惑を拒まれました。サタンが彼に押しつけようとしたものに対して、何と彼は戦い抜かれたことか。それなのに、最後になって、御父からそれを私たちのために受け入れるよう求められたのです!私たちなら耐えられるでしょうか?いいえ、耐えられません。
「彼は従順になられました」。ああ、彼の場合、それは何という従順を意味したことか!彼は神に対して従順でした。神は彼にこう言われたかのようでした、「わたしがあなたに求めているのは、あなたが人類のために罪とされ、罪として裁かれ、罪としての取り扱いをわたしから受けて、まさにこの罪の立場に足を踏み入れることです。わたしはあなたを対処して、わたしに対する敵意によって引き起こされたわたしの怒りをあなたの上に注いで、あなたを裁きます。また、わたしはわたしの臨在をあなたからまったく取り去ります。これは恐るべき現実であり、あなたは『わが神、わが神、なぜわたしを見捨てられたのですか?』と叫ぶでしょう」。無力さについては――「彼は弱さを通して十字架につけられ」ました(二コリント十三・四)。彼は自分を救うことができませんでした。十字架における(単数形の)罪の働きはこのようなものであり、この捨てられた山羊は遙か遠くに送られました。「私が昼よばわっても、あなたは答えてくださいません」(詩篇二二・二)。神から見放され、見捨てられた、この遠くのすたれた荒野から叫んでも、だれも答える人はいません。私たちには耐えられません。私たちのためにサタンのこの力を滅ぼすために、この永遠のように長く思われる一時の間、彼は死を味わわれました。すなわち、神の怒りを受け、神から遠ざけられて、まったく無能で無力な者となられたのです。
(b)神から受け入れられたキリスト
しかし、十字架には別の面もあります(主がお望みになるなら、私たちはこれについて後でまた話さなければならないでしょう)。十字架のこの別の面では、一方において、これまで述べてきたことはみな真実であり、私たちはそれ――その恐ろしい暗闇と暗黒と恐怖――にあずかることは決してないのですが、他方で何かが進んでいます。彼はしみのないご自身を神に供えられました(ヘブル九・十四)。彼は神への供え物でした。これが別の面です。「この方は私たちを暗闇の力(権威)から救い出して、愛する御子の王国の中に移してくださいました」(コロサイ一・十三)という御言葉が、私たちのために効力を発揮するようになったのです。これが十字架の意義です。私たちはこの暗闇の中から神の絶対的御旨の中に移されました。神の絶対的御旨は「愛する御子」です。私たちは「この愛する方にあって受け入れられ」ました(エペソ一・六)。私たちは十字架によって一方から他方へ移されたのです。
ああ、この十字架の二つの面の素晴らしい深遠さと豊かさをもっとよく知らせる力が私にあれば。あなたはもう少し良く理解しておられると私は信じます。今、私たちは十字架の二つの面――裁きと受容――について考えています。彼がなさったことを見ることにしましょう。彼は神の怒りをことごとく吸い込み、飲み干されました。もし私たちが信じるなら、私たちに対する神の怒りはもはやありません。もし私たちが信じるなら、彼は神と私たちの間にあった広大な深淵を埋め立てて塞ぎ、彼の十字架の血を通して私たちを神のみそば近くにもたらしてくださいます。そして、彼は私たちを無能さから救い出して、神の力を受ける地位に連れ戻してくださいます。それは私たちが聖霊により神の大能の力を授かるためです。「彼の御霊を通して、力をもって、あなたたちの内なる人を強めてくださいますように」(エペソ三・十六)。私たち自身は弱いままですが、それにもかかわらず、「私は私を強めてくださる方にあって何でもすることができます」(ピリピ四・十三)と言えます。これは一大変化です。
実際的適用
しかし、これは実際に適用されなければならないことがわかります。私たちはこのような十字架の意義にはっきりとあずかって、こう言わなければなりません、「わかりました。天然の私に関する限り、これが十字架の意義である以上、もはや自己の意志や独立の精神のための余地はありません。自己の意志も独立の精神も十字架に行かなければなりません。旧創造に属するものはすべて十字架に行かなければなりません」。神に感謝します。十字架は大昔に立てられたたんなる木造品ではありませんし、私たちが自分の肩に担うべき像でもありません。十字架は神の大能の力です。「十字架につけられたキリストは神の力です」(一コリント一・二三、二四)。これをなすために、私たちを私たち自身の頑固な意志から救うために、私たちの内にある神に対するこの敵意の力を砕くために、そして私たちを御子の形に造り変えるために、十字架に神の力が集中しています。ああ、十字架は何と途方もないのでしょう!私たちは十字架のゆえに彼がどれほど代価を払われたのかを礼拝しつつ、この黙想から厳かに立ち去ろうではありませんか。私は「厳かに」という言葉の代わりに「砕かれて」という言葉を使いたいくらいです。彼は従順になられました!この従順という命題を自分の前に掲げなさい!たとえ私たちが罪に満ち、罪を犯す大きな可能性があったとしても、一つの命題を自分の前に掲げるなら、私たちは罪から身を引いて、「私がそれに触れることを神は断じてお許しになりません!」と言うにちがいありません。私たちは主に大いに反する雰囲気や状況から滅多に身を引きません。彼を思いなさい!私たちは決して彼の苦しみを理解できません。彼は聖なる方でしたが罪とされて、神の怒りを余すところなく受ける立場に立つことを御父から求められました。彼は神の怒りを教義的に、形式的に受けたのではなく、実際に受けたのです。そして、彼は「自分は神から遙か遠くに捨てられてしまった」という思いを抱かれました。彼は神を見いだせませんでした。彼は無力で何もできませんでした。これが代価であり、私たちを救うために彼が従順になられたことの意義です。ああ、私たちの救いは何と高くついたことか!私たちは恭しい心からの愛をもってこれを熟慮しようではありませんか。
しかし、私たちはそこに置き去りにされるわけではありません。神に感謝します。私たちの一人たりとも、決して神の裁きを味わう必要はありません。私たちの一人たりとも、神から捨てられる経験をする必要はありませんし、神から遠ざけられる経験をする必要すらありません。私たちは私たちの主イエス・キリストにあって、彼を信じる信仰により、まさにその正反対であることを知っています。
どうか主がこのつたないメッセージを用いてくださり、私たちの贖いがどれほど高価なものかを私たちの心に印象づけてくださいますように。私たちが贖われたのは、「朽ちるものや、銀や金によってではなく、尊い血によったのです」(一ペテロ一・十八~十九)。
ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。