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十字架・教会・王国

T・オースティン-スパークス

第7章 義の勝利

「私の心は麗しい言葉であふれています。私は王について詠んだ私の詩を語ります。私の舌は速やかに物書く人の筆のようです。あなたは人の子らにまさって麗しく、恵みがその唇に注がれています。それゆえ、神はとこしえにあなたを祝福されました。ああ、勇者よ、栄光と威厳とをもって、剣を腰に帯びてください。真理と柔和さと義のゆえに、威厳をもって栄華のうちに乗り進んでください。あなたの右手はあなたに恐るべきことを教えるでしょう。あなたの矢は鋭くて、王の敵の胸を貫き、もろもろの民はあなたの下に倒れます。あなたの王座は、おお、神よ、永遠に続き、あなたの王国の杖は公平の杖です。あなたは義を愛し、悪を憎まれました。それゆえに神、あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまさって、あなたに注がれました。」(詩篇四五・一~七)

「……しかし、御子について彼は言います、『あなたの王座は、おお、神よ、永遠に続き、あなたの王国の杖は公平の杖です。あなたは義を愛し、不法を憎まれました。それゆえに神、あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまさって、あなたに注がれました』。」(ヘブル一・八~九)
この聖書の二つの御言葉の中に、とても多くのことが集約されています。前の黙想では、ほんの少しだけかもしれませんが、私たちの主イエスの十字架について、また裁きの意味について、いくらか見ました。さて、十字架のもう一つの面に移って、義の根拠に向かうことにします。これまで私たちは、裁きという結果になる罪に注意してきました。今度は、義に注目することにします。

二つの王国の間の戦い

しかし、私はここでもう一度、背景全体を理解してもらうために、次のことを述べたいと思います。この一連の黙想で私たちが見ようとしているのは、この二つの大きな王国、サタンの王国と神の王国、暗闇の王国と光の王国、死の王国と命の王国の間の戦いが、今日、とても激しく広範囲にわたってなされており、終末に向かって進みつつあるということです。至る所で主の民はこの戦いに巻き込まれています。とても現実的な意味で、この戦いの行く末は彼らにかかっています。教会は永遠の選びの道具また器であり、教会の中で、また教会を通して、主イエスの絶対的主権が現され、執行されます。これが実現されるには、大いに実際的な立場に基づいて、大いに実際的な路線で、深い霊的な準備がなされなければなりません。なぜなら、この二つの王国は客観的な外面的方法で設立されたたんなる組織ではないからです。これらの王国は政治的なものでも、経済的なものでもありません。いかなる意味においても、地的なものではありません。この二つの王国は霊的なものであり、その性質と力と存在のまさに本質は一つの霊的な状態なのです。そして、この霊的状態はそれぞれの王国に属する人々の構成そのものの中にも見いだされます。サタンの王国は実際のところ、もともと人の内側に存在するものであることを、私たちはこれまで見ようとしてきました。今、サタンは人自身の性質の内に力を有しています。他方、天の王国も内なるものです。天の王国はあなたの内側にあり、それゆえ、内側の構成の問題です。ですから、ここで私たちに一つの問題が持ち上がります。その問題とは、この王国、神の民の命の内側にあるこの天の王国は、実際のところ、その至高性と優位性を現し出すようになるのか、ということです。私たちはそのために召されているのであり、これこそまさにこの一連の黙想の課題です。

義によって治められている王国

さて、私たちはこの問題――それが何を意味するのかについて――を再び内なる方法で追うことにします。しかし今回は、義の面についてです。私たちの読んだ聖書の箇所が、「御子について彼は言います、『あなたの王座は、おお、神よ』」となっていたことに気づかれたでしょうか。神の愛する御子の王国と神の王国とを機械的に区別してはなりません。これらは意味においても、価値においても、効力においても同じものです。「私たちを暗闇の力(権威)から解放して、愛する御子の王国の中に移してくださいました」(コロサイ一・十三)。これは何の王国でしょう?「あなたの王座は、おお、神よ」とは、御子について述べている言葉です。「永遠に続き」――この王国は永存する王国です。この言葉は旧約聖書でいと高き神の王国に関して使われているのと同じ言葉です(ダニエル四・二三)。「あなたの王国の杖は公平の杖です。あなたは義を愛し、不法を憎まれました。それゆえに神、あなたの神は喜びの油をあなたに注がれました……」。

義は義なる方の表現である

さて、サタンの王国は(単数形の)罪に基づいています。そして(単数形の)罪は、すでに述べたように、反逆と倒錯であり、そのあらゆる現れを伴います。すなわち、高ぶりや、あらゆる形の自己を伴っており、神に対する敵意、神からの分離、自分自身を贖うことができない完全な無能さや無力さという結果になります。これがサタンの王国の基礎です。他方、神の王国は義に基づきます。すなわち、(単数形の)罪のまったく正反対のものに基づいています。サタンが(単数形の)罪の化身である以上、正しく理解するなら、キリストは義の化身でなければなりません。要点はこうです。義は何か抽象的なものではなく、何か人格的なものなのです。(単数形の)罪のことを何か抽象的なもののように話さないでください。(単数形の)罪はひとりの者の表現です。サタンこそ(単数形の)罪であり、彼から発するものはすべて(単数形の)罪です。同様に、キリストは義であり、神から発する義はキリストです。キリストは私たちに至る神の義となられました(一コリント一・三〇)。彼は「義なる方」(使徒三・十四)です。義は人格的なものです。私たちはこれを宣言し、これを強調する必要があります。それは、私たちが取り扱っているのは物であると決して思わないようにするためです。私たちが取り扱っているのは、つまるところ、ふたりの人物であり、それゆえ、二つの王国なのです。両陣営とも、「何に?」ではなく「誰に?」という問題に帰着します。誰が王国を獲得するのでしょう?

さて、「王国」という言葉が主権、権威、力を示唆するものだとするなら――もちろん実際そうなのですが――主権、権威、力は一つの性質に基づくものであり、それから生じるものということになります。これらのものは職務的なものではなく、任命されたからといって行使したり、主張したりできるものではありません。これらのものは当事者の一人の人あるいは複数の人々の性質から発します。つまり、あなたや私は神の性質や神の似姿を知るその程度を越えて、神の力を知ることはできないのです。敵の力に対する私たちの霊的力、主権、権威は、私たちの神との親しさや私たちの内側の神の似姿以外の何ものにもよりません。ある種の用語を採用して、権威に関する深い知識抜きで、その用語を敵に向かって投げつけるいかなる教えの体系も、きわめて危険であり有害です。そのような教えの体系は必然的に、信奉者全員を困難の中に巻き込むでしょう。そして、その困難の中から彼らを救い出すのは容易ではないでしょう。これは観念を述べたものではなく、事実です。ある人々は「サタンは敗北した敵である」と言って立ち上がり、聖書の御言葉をサタンに投げつけたのですが、サタンは彼らに恐ろしい損害を与えました。私たちの中にはこれを目撃した人もいます。彼らはその結果、散らされてバラバラになってしまいました。しかしこれは、敵に対する権威なるものは存在しないことを意味するのではありません。私が強調しようとしているのは、権威の根拠を知る必要があるということ、そして、その根拠はここで義が意味するところのものであるということなのです。

義なる方の特徴

(a)柔和さ

そこで、義の上に建てられているこの王国の性質に進むにあたって、この王国がいかにサタンの王国とは正反対の特徴を帯びているのかを見ることにします。サタンの王国では、すでに述べたように、高ぶりが反逆、反乱、悪の長い歴史の出発点であり、その第一の特徴です。「あなたの心は自分の美しさのために高ぶった」(エゼキエル二八・十七)。ですから、神の王国、神の愛する御子の王国は、高ぶりの反対のもの、すなわち柔和さをその基礎としなければなりません。柔和さというこの問題は神の御言葉の中で、旧約聖書と新約聖書の両方で、大きな地位を占めています。私はこの事実にあなたの注意を促したいと思います。あなたにほんの少しだけ引用を示すことにしましょう。そうするなら、あなたは直ちに他の多くの御言葉を思い出すでしょう。

「主は柔和な者を正義によって導き、柔和な者にその道を教えてくださる。」(詩篇二五・九)
「柔和な者は地を受け継ぐ。」(詩篇三七・十一)
「主は柔和な者を支えてくださる。」(詩篇一四七・六)
「主は柔和な者を救いをもって飾られる。」(詩篇一四九・四)
「(主は)公平をもって地の柔和な者のために裁かれる。」(イザヤ十一・四)
「主は私に油を注いで、柔和な者に福音を宣べ伝えさせ」(イザヤ六一・一)
これらの御言葉はみな、私たちをこの特徴の完全な化身であった方のもとに導きます。「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。わたしは柔和で心がへりくだっているからです」(マタイ十一・二九)。エルサレムに対して、「見よ、あなたの王が来られる。柔和で、ロバの子に乗って」(マタイ二一・五)という預言の言葉が告げられました。また、ペテロは柔和さを大いに価値あるものとして述べています。「柔和で穏やかな霊という飾りを身につけなさい。これこそ神の目に大いに価値あるものです」(一ペテロ三・四)。パウロは言いました、「私パウロが、キリストの柔和さで、あなたたちにお願いします」(二コリント十・一)。エペソの教会はパウロを通して偉大な包括的啓示を受けました。その啓示によると、教会はこの世界の基が据えられる前から、キリストにあってあらかじめ定められ、予定され、選ばれていました。また、その啓示は神が教会を選ばれた目的について示すものでもありました。エペソの教会は、教会の永遠の召しと天的な使命と力に関して、このように比類ない解き明かしを受けました。ところが、この教会に対して、パウロはいわば高嶺から下って来て言います、「柔和の限りを尽くして、あなたたちが召された召しにふさわしく歩みなさい」(エペソ四・一~二)。「これらのことによって霊的高ぶりに陥ってはなりません」。これはみなどのように実現されるのでしょうか?自己主張によってでしょうか?いいえ、「謙遜と柔和の限りを尽くす」ことによってです。

これらの御言葉は確かに、私たちを次の事実に向かい合わせるのに十分です。サタンのすべての力を征服する力は、第一に柔和さの中に集約されていることがわかります。(単数形の)罪のあらゆる強大な力とサタンが設立したこの強大な王国全体の中に、サタンは人の子ら全員を生まれつき引き込んでいますが、このサタンの王国は柔和さによって滅ぼされます。柔和さはサタンの王国の力より強力なのです。

(b)明け渡しと従順

文脈上ここでは、明け渡しという別の言葉を用いることにします。この言葉は聖書の中にあまり出てきませんが、その意味するところは聖書に満ちています。ルシファーは反逆し、その後アダムが重大な裏切りを犯して彼の手に陥りましたが、敵とアダムに影響を及ぼして彼らを支配していたものは、自分のものにしようとする所有欲だったことを私たちは見ました――サタンは「私は……しよう、私は……しよう、私は……しよう」と心の中で言い、力の限り手を伸ばし、つかみ取り、握りしめ、決して手放そうとしませんでした。ですから、彼の王国はこの基礎の上に立っています。これに何か説明が必要でしょうか?今の世の中を見まわしてご覧なさい。強奪や獲得欲、手を伸ばして獲得し、所有し、握りしめ、財産を使って支配することがまかり通っています。これに対して神の王国は立ち向かい、征服します。神の王国は神の愛する御子の王国であり、キリストとその王国の特徴は明け渡しです。

ここでまた意義深く印象的なことに、ピリピ人への手紙の中にこの明け渡しの問題について記されています。ところが残念なことに、私たちの英訳聖書では明け渡しというこの言葉は使われていません。この手紙の内容について私たちは知っています。ユーオデヤとスントケは明らかに自分自身の権利を主張していました。どういうわけか、彼らは仲違いしてしまいました。おそらく、二人のうち一人が悪くて、もう一人は自分の権利を擁護していたのでしょう。「あなたは私に謝らなければなりません。あなたは私に赦しを求めるべきです。あなたは私から取ったものを返さなければなりません」。そこで、パウロはこのような状況を対処する手段、方法として(「結局のところ、これは二人の間のささいないざこざにすぎないのに、なぜ大騒ぎするのだろう」とあなたは思われるかもしれません)、見いだしうる最大の根拠を示します。彼はそれとなく、この世界が造られる前の、私たちが以前描写した光景にまで遡ります。そこでは守護のケルブが火の石の間を上り下りしていました。この守護のケルブは最も輝かしい被造物であり、神の御座に次ぐ地位にありました。ところが、彼は「私は……しよう」と言い、そこからすべての悪が始まったのです。そして、ユーオデヤとスントケの二人はこの地上で、遠く離れたピリピにいたのですが、この二人によりまさにこれと同じものが表されたのです。高ぶり、個人的利益、個人的獲得欲のせいで、二人の間に亀裂がありました。これはまったく同じものであり、分裂を生じさせます。そこで使徒は懇願して言います、「これは原則的に同じものであり、それゆえ、その結果、教会を引き裂くという同じ影響を及ぼすことになります。それがどう対処されたのかを見て、自分自身を改めなさい。神と等しい方がおられましたが、この方は神と等しくあることを固守せずに、ご自身を空しくして、死に至るまで、実に十字架の死に至るまで従順になられたのです」。彼はこの崩壊した宇宙をサタンの隷属状態から解放するために従順になられました――その意味について私たちは前の黙想でいくらか見ました。この獲得欲の原理が働いていたため、御父は御子にこう頼まれました、「どうか(単数形の)罪になってくれないでしょうか?この悪がもたらした結果をすべて身に負ってくれないでしょうか?あなたがそうする時、あなたとわたしとの間に大きな亀裂が生じて、あなたはわたしから遠く離れた忘却の地に追放されることになります。その地であなたが叫んでも、その叫びは届きません」――しかし、これ以上に酷いことだったのです。しかし、彼は従順になられました。彼は「はい、わかりました」と言われました。そして、彼はこうした一切のことのために、失意のうちに死なれたのです。パウロは、この地上にいる二人の人、ユーオデヤとスントケに言いました、「あなたたち二人の間の関係はこの圏内になければなりません。これがその意味です。あなたたちは正しい関係と中心を保たなければなりません」。「私はユーオデヤに勧め、スントケに勧めます。主にあってこの同じ思いを持ちなさい」。「あなたたちの内にこの思いを持ちなさい。この思いはキリスト・イエスの内にあったものです」(ピリピ二・五)。「明け渡しなさい!この問題の中に悪魔が潜んでいます。悪魔はここに足がかりを得て、あなたたち二人を通してまさに神の教会を混乱させようと狙っています。悪魔は大昔に天で行ったこと、また地上で諸々の世紀を通して行ってきたことを、ここでもしようとしています。ここにあるのはサタンの王国です。それを滅ぼす唯一の方法は明け渡しによります」。そこで(この状況を心に留めておいてください)この手紙の少しあとの方で使徒は言います、「あなたたちの寛容(明け渡し)をすべての人に知らせなさい」。主イエスは手放す技術の偉大な達人です。ある意味、地上における彼の全生涯は手放す生涯でした。人々もサタンも彼に王国を差し出しましたが、彼はそれを手放されました。常に、彼は手放す術をご存じでした。このような方法で、彼は獲得されたのです。「あなたは不法を憎まれました」がこの問題全体の核心を突いています。「それゆえに神はあなたに油を注がれました」。「あなたが手放したからこそ、あなたは王国を得たのです」。

彼は「屠り場に引かれて行く小羊のよう」でした(イザヤ五三・七)。これより完全な明け渡しの絵図はありません。「毛を刈る者の前で黙っている羊のように、彼は口を開かなかった」。彼が訴える者たちの前にいた時、彼を殺そうとしている者たちの前にいた時、彼らは彼の口を開いて自己弁護させようと手を尽くしましたが、「彼はお答えにならず、一言も話されなかった」(マタイ二七・十四)のです。これは明け渡しでした。しかし、ああ、この明け渡しの力、この種の事柄の霊的力を私たちがもっとよく知っていれば!私たちは時間をかけてこれについて熟考し、自分の心を探る必要があります。私たちはもともとそのようなものではありません。私たちはすぐに口答えし、自分自身を正当化し、自分自身を擁護し、自分の権利を主張し、怒ってしまいます。また、私たちの利益が何らかの形で脅かされたり、削減されたりしようものなら、大いに取り乱してしまいます。そうです、バスや電車の中で、物事が順調に進まない時や、人々が期待どおりに私たちを扱ってくれない時、私たちはたちまち激高してしまいます。罠にかかるのは容易です。柔和の精神は常に現存するわけではありません。私たちには大いに学びが必要です。

さて、これは内側を省みて自分を吟味したり分析する問題ではありません。これはイエスの霊を私たちの内側に住まわせて、私たちをキリストに似た者にしてもらう問題です。また、私たちはキリストに似た者となる必要性に目を留めるだけでなく、これが必要な理由にも目を留めなければなりません。つまり、打ち倒されるべき大きな王国があるのです。明け渡しはその唯一の道です。

また、明け渡しは従順を含んでおり、従順という結果になります――従順は反逆の正反対です。これまで述べてきたことを考慮すると、これ以上これについて考える必要はないと思います。しかし、主イエスの明け渡しに関する宣言の結論とその輝かしい結果を示すこの特別な御言葉について熟考するのは良いことです――「死に至るまで従順になられました。それゆえに、神はまた彼を高く上げられました」(ピリピ二・八、九)。

(c)依存

次は依存です。依存は独立の正反対です。独立の精神は多くの形で働きます――それについては前に述べました――神をまったく追放したり、神に頼らずに自分の将来を切り拓こうとします。また、独立の精神はそれより目立たない様々な形で働くこともあります。例えば、きよめられた人ですら、主の祝福を受けると、霊的高ぶりの兆候を示し始めることがあります。主の祝福を受けてうぬぼれに陥るのはとても簡単です。主に立ち返って、「主よ、先刻は素晴らしい時でしたが、次にどうなるかはあなた次第です」と言わずに、歩みを重ねてしまうこともありえます。最初の一歩が祝福されたからといって二歩目を踏み出してしまう、この一見何でもないように見える行動は、霊的高ぶり――うぬぼれ――から発しているのです。

主イエスをご覧なさい。主がこの地上で過ごされた年月の歩みを追うなら、直ちに一つのことが明らかになります。それは彼が御父に依存しておられたということです。「子は自分からは何もすることができません」(ヨハネ五・十九)。「主は諸々の制約や、活動を促す諸々の影響の下にあったため、じっと待っていて、決定を下さずに、行動するかどうか、行くかどうかの間で宙ぶらりんになっておられるのではないだろうか」と思いそうになることがしばしばあります。彼の母親の、「人々のぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ二・三)という言葉を覚えておられるでしょう。人々は彼に、とても酷い状況の困った問題を解決する好機、何か尋常でないことを行う好機が来たことをほのめかしました。しかし、彼はしばらくの間、保留されました。「わたしの時はまだ来ていません」。母親に言われたからという理由だけでは、彼はそれを行えませんでしたし、行おうともされませんでした。仮庵の祭りの時、彼の兄弟たちはエルサレムに上って行くよう彼を促しました。しかし、彼の返答は、「あなたたちは祭りに上って行きなさい。私はこの祭りには上って行きません」でした(ヨハネ七・一~十)。その後、彼らが上って行くと、彼ご自身も上って行かれました。彼の全生涯にわたって、こうでした。どんな事であれ、彼が行動されたのは、他の人々がそうしていたからでも、そうするのが当然だったからでもありません。また、熟慮や感情や他の方法によってでもありませんでした。主の行動は、「父よ、あなたはこれを望んでおられるのでしょうか」ということに基づいていました。彼は父から離れて行動しようとはされませんでした。彼は御父に完全に依存しておられました。サタンの王国はこのような方法で打ち倒されるのではないでしょうか?

こうした事柄の多くは、荒野の三つの誘惑と全く符合していたのではないでしょうか?「これらの石にパンになれと命じなさい」、「あなたの身を投げ落としなさい」、「もしあなたがひざまづいて私を礼拝するなら……」(マタイ四・三、五、九)。この誘惑の背後にあるものは何でしょう?――「自分で主導権を握って行動しなさい、自分自身から行いなさい、この問題を自分の手で処理しなさい!」ということでした。しかし、彼は拒絶されました。自分は父に委ねられていること、自分は父の奴隷であることを、彼はご存じだったからです。「見よ、わが僕」(イザヤ四二・一)。これこそまさに依存でした。

さて、私たちの全存在は、この依存という思想に対して自然に反発します。私たちは高慢なので、依存することができないのです。私たちはもともと独立的です。そうです、これこそ私たちの内にあるサタンの毒です。もしこの毒が霊の領域に入り込むなら、原則的にサタンの王国が神の王国の中に入り込むことになります。

しかし、依存は力を得る道です。なぜでしょう?――この道に沿って主は到来されるからです。主がご覧になるのは柔和な者、拠り頼む者です。「わたしが目を留めるのはこのような者です……」(イザヤ六六・二)。力は主が私たちと共におられる結果です。私たちは思い込みやうぬぼれで何らかの活動を続けるかもしれませんが、もし主が私たちと共におられないなら、何の益があるでしょう?

(d)愛から生じた無私の心

これはみな無私の心に要約されます。無私の心は、仏教に見られるような消極的なもの――自制や欲望の滅却――ではありません。無私の心は愛が結ぶ実であり、愛は大いに積極的なものです。なぜ主イエスはこの立場を取り、それにしがみつき、最後までこの戦いを戦い抜かれたのでしょう?彼は霊の世界から加えられるあらゆる圧迫に対して戦い、血の雫を流すほど戦われました。なぜ彼は、「わたしの意志ではなく、あなたの御旨がなされますように」と言われたのでしょう?なぜでしょう?御父を愛する愛のためです。愛が積極的な要因でした。そして、無私の心はこの領域では積極的なものになります。愛、キリストの愛が制限します。愛が入って来る時、自己は出て行きます。ですから、私たちはこの問題に関して否定的な面を取り上げません。私たちは「主の愛で私たちを満たしてください」と主に求めます。そうするなら、自己は出て行きます。愛と自己というこの二つのものは決して共に王座に着くことはできません。無私の心――これが愛が姿を見せる方法であり、愛の結ぶ実です。

罪の影響は義によって無効にされた

この柔和さ、明け渡し、従順、依存、無私の心の結果は何でしょう?他方の(単数形の)罪とはまさに正反対のものです。(単数形の)罪は神に対する敵意です。しかし、この結果は愛であり、神の愛がキリストにあって私たちの心に注がれ、この敵意を滅ぼします。(単数形の)罪は神から引き離します。このキリストの性質は神に近づけ、神に似た者とします。無能さの代わりに神と共にある力、神の力が到来します。

義の結果――命

さて、黙示録を見ると――黙示録では聖書に記されているあらゆることが究極的表現に至ります――この宇宙の諸々の動きの結末は、「この龍、この古い蛇、すなわち悪魔、サタン」が高い所から投げ落とされることであるのがわかります。この龍は最後に自分の者たちと共に投げ落とされて滅びに至ります。次に、天から新しいエルサレムが下って来て、自分の地位につきます。しかし、これはどのように実現するのでしょう?「小羊は打ち勝ちます……」(黙示録十七・十四)。ヨハネはある時、「私は七つの封印で封印された一冊の巻物の幻を見て、『誰がこの巻物を開くのにふさわしいのか?』という声を聞きました」と言いました。しかし、ふさわしい者はだれも見つかりませんでした。そこで彼は言いました、「私は激しく泣きました。この巻物を開くのにふさわしい者がだれも見つからなかったからです」。しかし、御使いは言いました。「泣いてはいけません。見よ、ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、この巻物を開くことができます」。そこで、ヨハネがその獅子を見るために振り向くと、「屠られたばかりのような小羊が立っている」のを見ました。あなたはこれをよくご存じでしょう。この方は獅子であって、力、威厳、主権を持っておられるのでしょうか?そうです、すべて持っておられます。この方はどこにおられるのでしょう?――この方は「屠られたばかりのような小羊」です。この屠られた小羊は、ユダ族から出たこの獅子のあらゆる特徴の化身です。「彼らは小羊の血のゆえに打ち勝った」(黙示録十二・十一)。ああ、これらのことにはみな霊的意義があります!それは私たちを探り、私たちの心を貫かなければなりません!この敵はどのように打ち倒されるのでしょう?敵の王国はどのように滅ぼされるのでしょう?神の民である私たちの内側にこの小羊の性質が成長して、このサタンの王国全体が原理的に無効化されることによってです。この王国は永遠の王国でもありますが、その力は「あなたの王国……」と言われた方の性質の力です。これが彼の性質です。「あなたは義を愛し、不法を憎まれました。それゆえ……」。そして、これは死に勝利する命です。小羊が戦って勝利する時、教会は彼との交わりによってこの性質の恩恵にあずかります。それは小羊の血と、証しの言葉と、死に至るまで自分自身の命を愛さないことによります。こうして、最後の光景――新しいエルサレム――のための道が開かれます。そして、この都の真ん中から命の水の川が流れ出ます。これが命です!

命とは何でしょう?命とは神に明け渡すことです。命とは柔和さです。命とはこれまで述べてきたことです。命とは命なるキリストです。私たちは物事を取り扱っているのではありません――これらのことにはみな文字どおりの面もかなりあって、すべてが原則や抽象的な観念というわけではないかもしれませんが、それでも、こうした他の一切のことの背後には数々の霊的特徴があります。天が私たちのもとに到来しない限り、私たちは天に行くことについて考えようとしないでしょう。主が私たちのところに来られない限り、私たちは主のもとに行くことについて考えようとしないでしょう。王国が私たちの内にすでに建設されていない限り、私たちに与えられることになる王国について私たちは考えようとしないでしょう。これはみな、いま主が私たちの内側で行われることにかかっており、また私たちが思慮深く主の御旨に協力することにかかっているのです。

この王国は信仰の試練によって内側に確立される

主はなぜ私たちをこのように取り扱っておられるのでしょう?なぜ主は私たち導いてこのような経験を通らせておられるのでしょう?あなたはこれまで「主は自分から離れてしまった」と少しでも感じたことがあるでしょうか?私たちはこれまで「キリストは私たち全員を担ってくださっている」と言ってきましたが、それにもかかわらず、「主は遠くに行ってしまわれた」と時々感じることがなかったでしょうか?これはなぜでしょう?ああ、私たちはこの問題で困惑してきました!主は言われました、「見よ、わたしはこの時代の終結の時まで、毎日あなたたちと共にいます」(マタイ二八・二〇)。「わたしは決してあなたを見捨てず、あなたを見放さない」(ヘブル十三・五)。「それでは主よ、あなたは今日どこにおられるのでしょう?今日、あなたは遙か遠くにおられるように思われます。私にはあなたの臨在が感じられません」。どうしてでしょう?その理由は次のとおりです。すなわち、神は遠くにおられるのではなく、これは神の事実なのです。神の事実を信じるあなたの信仰はどうなっているのでしょう?あなたは事実に基づいて生きているのでしょうか?それとも、感情に基づいて生きているのでしょうか?信仰によって生きているのでしょうか、目に見えるところによって生きているのでしょうか?――なぜなら、すべては信仰によって確立されなければならないからです。信仰によって立ち上がって言わなければなりません、「主よ、今日あなたは遙か遠くにおられるかのように思われますが、あなたは遠く離れてはおられません。あなたはあなたの約束にしたがってここにおられます。『神はお前から去ってしまった』、『お前が聖霊を悲しませたから、神はお前を捨ててしまったのだ』という悪魔のそそのかしを私は拒否します。あなたは十字架によってあなたと私との間の隔てを埋めてくださいました。このあなたのすべての御業に基づいて、私は悪魔のそそのかしを拒否します」。このように信仰によって自分の立場を宣言する時、状況は回復され、問題は片付きます。

他の問題もみな、この問題と同じです。私たちはこの学校で次のことを学んでいるところです。すなわち、私たちは客観的な方法で聖書に基づいて生きているわけではなく、ある意味、たんなる本としての聖書は私たちを助けることができず、私たちの益にもならないのです。どうにかして、私たちと神が語られた御言葉との間で何かがなされなければなりません。それは神の御言葉が現実のものとなるためです。そして、これは試練や試みを通してなされます。こうしてこの霊的実際――王国――が私たちの内側に確立され、私たちはこの別の王国を支配することを学びます。主は私たちを助けてくださいます。

ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。