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十字架の中心性と普遍性

T・オースティン-スパークス

第9章 十字架と天、 「あらゆるものを遙かに超えて」

おそらく、聖書の中で最も神秘的な御言葉の一つは、「エペソ書」(三章十節)でパウロが述べた次の御言葉でしょう。

「それは今、天上にいる支配たちや権威たちに、神の多種多様な知恵を、教会を通して知らせるためです。」

これは少なくとも、使徒がとても特別な啓示を受けたことを意味します。なぜなら、これは研究や理屈や推測では決して達しえない事柄の一つだからです。それがいったい何を意味するのか、私たちにはわかりません。しかし、私たちはあることを見ることができます。

第一に、この支配たちや権威たちはエペソ書六章に述べられているものと同じである、とは信じがたいことがわかります。主が彼の多種多様な知恵をどうして悪の勢力に示すことを願われるのか、その理由を理解するのは実に困難でしょう。万有に及ぶ彼の御旨は、彼の栄光を宇宙に表現して拡散することであり、それは彼が崇敬、驚嘆、驚きに満ちた喜びのうちに礼拝されるようになるためです。このことから、私たちはこの御言葉に対する鍵を得ます。この箇所では、キリストと共に天上に座らされているものとして教会が描かれています。教会は悪の勢力の領域内にあるのではなく、彼らを超越しており、天使の軍勢の間にあります。そこでは、知的存在者たちは神の知恵と能力を絶対的に確信していますが、それにもかかわらず、教えを受けることができ、学ぶことができます。彼らは、サタンの妨害と人の共謀によって引き起こされた、言語を絶する巨大な途方もない問題を知っています――それは、人の引き裂かれて歪曲された性質の問題であり、その結果生じた、人に対するサタンの力と人自身の完全な無力さの問題であり、罪、敵意、憎しみ、高ぶり、自己中心、戦い、死などの問題です。これは山のように積み重なった問題であり、神はこれに答えなければなりません。「神はこれに答えることができる」と彼らは確信していますが、神がいかなる方法でお答えになるのかはわかっておらず、息を呑んで見守っています。彼らは、神が答えを盛る器である教会を見つめています。教会の中には様々な人がいるので、教会の構成員の気質、気性、性質、傾向は、人間的には多種多様です。生来の彼らの内には、堕落のあらゆる結果や影響が見られます。次に、恵みが働き始め、彼らを召し、彼らを選び、彼らを救い、彼らを聖別し、彼らを変えます。そのため、彼らはまったく「生来の性質に反して」進むようになります。彼らはもはや、以前していたことをしません。彼らは以前なら決してしなかったことをします。恵み、恵み、恵み!これが毎日働いて、発達します。この言葉は「エペソ書」の中に何回も出てきます。その栄光に満ちた結果は、「それは神が、キリスト・イエスの中で、私たちに対する彼の恵みの卓越した富を、来たるべき時代に示すためでした」(二章七節)です。ですから、教会とその構成員はあらゆる種類の試みや試練――迫害、非難、逆境、悲しみ、孤独、失望、肉体的苦難、挫折など――の中を通ります。そして、神の恵みによる応答は、神の恵みがない場合とはまったく別のものなのです。

物事がその永遠の価値や正当な意味にしたがって認知されるその所では、この「神の多種多様な知恵」のゆえに、支配たちや権威たちは神を礼拝し、ほめたたえます。そして、教会はこのような形で主に仕えるため、彼の栄光にあずかって、「神の栄光をもって天から」下るよう定められています。十字架がこれとどう関係しているのかは容易にわかります。最初に、十字架は神のために器を確保します。次に、原則として徐々に、十字架は力を与えて、彼の栄光に敵対して働くものをすべて片づけます。十字架は、勝利のうちに耐え忍ばれたあらゆる失望と、柔和に忍ばれたあらゆる逆境の中心です。

宇宙を満たした問題に対する十字架という偉大な答えのゆえに、天使たち、大天使たち、天の万軍は、十字架を考案された御方をあがめます――この御方の計り知れない知恵は、「イエス・キリスト、十字架につけられた方」によって表されたのです。

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